昭和の若者と令和の若者
ついこの間、世の中はどんどん変化していて目まぐるしいと書いたばかり。
時代背景の新旧についてところがきのう、オーバードーズのニュースを見ていて思い出した。大正から昭和にかけての小説などには薬物の話が散見されるのだ。
萩原朔太郎の『猫町』には次のような文がある。
久しい以前から、私は私自身の独特な方法による、不思議な旅行ばかりを続けていた。その私の旅行というのは、人が時空と因果の外に飛翔(ひしょう)し得る唯一の瞬間、即(すなわ)ちあの夢と現実との境界線を巧みに利用し、主観の構成する自由な世界に遊ぶのである。と言ってしまえば、もはやこの上、私の秘密に就いて多く語る必要はないであろう。ただ私の場合は、用具や設備に面倒な手数がかかり、且(か)つ日本で入手の困難な阿片(あへん)の代りに、簡単な注射や服用ですむモルヒネ、コカインの類を多く用いたということだけを附記しておこう。
萩原朔太郎『猫町』より
また新潮文庫の【日本文学100年の名作】第4巻の織田作之助<1913(大正2)年~1947(昭和22)年>の紹介文には以下のように書かれている。
…1946(昭和21)年には当時の世俗を活写した短編「世相」を発表、太宰治らと共に売れっ子となった。同年「読売新聞」に「土曜夫人」連載のため上京、ヒロポンを打ちながら執筆しているさなかに喀血し、翌年1月に亡くなった。
日本文学100年の名作第4巻より
そういえば筆者が若かりし頃は、不良の間でシンナーが流行っていた。
いつの時代も先進的な若者らと危険な薬物は結びつきやすいのだろうか。
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芥川賞には「若者の享楽」系テーマが見られる
『芥川賞ぜんぶ読む』の著者は、<芥川賞には「あるあるネタ」って存在するの? すべて読むことでわかった作品の傾向>というコラムで芥川賞作品には似通ったテーマのものがいくつかあると述べている。
その中の一つが「若者の享楽」系という。
石原慎太郎『太陽の季節』に始まり、村上龍『限りなく透明に近いブルー』金原ひとみ『蛇にピアス』と続く、その時代の享楽的な若者の姿を描いたもののことで、今のところ20年~30年の間隔で出てくる。「享楽」とまでいかないものでも、伊藤たかみ『八月の路上に捨てる』や羽田圭介『スクラップ・アンド・ビルド』など、その時々の若者の生き方を描いたものも少なくない。
菊池良『芥川賞ぜんぶ読む』より
どの時代の若者らも、どこか似ている感じがするのは興味深い。同様に、どの時代のおとなもきっと似通ってしまってるところがあるに違いない。
<若者>とか<作家>とか<おとな>といったようなくくりで見るとき、誰もが持ちがちなイメージ像があって、それは案外更新されていないのではないか。もはやほんとかどうかもわからなくなってしまったイメージ像に今も支配されていることに気づけないでいるのかもしれない。
貧困とか孤独といった社会問題は、時代が変わり姿かたちが変わってもなくなる気配はない。そんな社会に反抗するように生きる不良たちがときにかっこよく見えてしまう構図もまたそのままだ。
新しいとは? かっこいいとはどういうことか? いろいろわからなくなってきた……。
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