友だちいますか?

重松清の『きみの友だち』を読んだ。読書感想文を書く子がいたからだ。

学校時代の人間模様が生々しく描かれていて、わたしも人間関係に苦労していたことを思い出した。あの頃、友だちって何? みたいなこと、考えたなあ。すっかりそんなこと、考えなくなったけど。

友だちと知り合いの違い

今でも友だちと知り合いの違いがはっきりしない。クラスメートは友だちなのか。自宅の行き来があったら友だちなのか。ニックネームや呼び捨てで呼び合える間柄が友だちなのか。学校や仕事以外の時間をいっしょに過ごせば友だちなのか。

自分は友だちのつもりでいたのに、相手は自分のことを友だちだと思ってなかったというズレがけっこうな頻度で起こりうる。

友だちの範囲はそれぞれバラバラみたいだ。

学校時代はきつかった

思えば学校というところはきつかった。何となくひとりでは居づらいからだ。どこかのグループに属していないと、何かとやりにくい。

とくに女子高時代はつらかった。グループというか派閥がはっきりとしていて硬く、出入りが非常にしにくかったからだ。協調性が弱く、いつもいっしょが苦手なわたしははじかれることも少なくなかった。

ひとりが気楽とはいえ、学校というところはひとりでは居づらい。何をするにもペアになったりグループになったりして集団活動を強いられる。都合のいいときだけどこかのグループに入れてもらうわけにもいかず、日ごろから多少無理をしなくてはならないのがけっこうつらかった。

おとなになるにつれて、縛りのきついところを避けられるようになって、ずいぶん楽になった。

その一方、友だちがほとんどいなくなってしまった。

会わなくても友だちか

わたしはどうもグループ活動が苦手なのだ。ひとりひとりにはなんとか対応できても、集団になると力関係が複雑になって、変な具合になることがあるからだ。

ひとりずつのつきあいについても、わたしは気が利くほうではないし、まめな性質でもないので、自然と疎遠になる。それでも機会があれば、いつでも友だちでいられるのが理想なのだが、それは都合が良過ぎるかもしれない。

疎遠にしていると、ちょっとした行き違いで誤解が生じることもありそうだ。

トラブルに発展しても、友だちなら何とか誤解をとこうとするものだ、などと考えるのはきれいごとだろうか。この先会わなければ、このままでいいか、ってこともありそうだけど、先々のことを思えば、何とかしておこうと思うのが友だちのような気もする。

快適な距離感はみな違うし、そのときどきの状況にもよる。だからといって、いっしょにいる時間の長さだけが親しさの物差しではないと思いたい。

知り合いには損得勘定が働くが、友だちは計算外でできるものだといった人がいた。なるほどそんなものかもしれない。

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