古臭いと感じてしまうのは
昭和がかつての明治のように遠く懐かしい時代になってきた。ひとことで昭和といっても六十年余りある。前半と後半ではまったく趣が違うのだが、江戸時代のようにひとくくりにされることも少なくない。
人生も後半になってふと振り返ると、時代の変化に驚かされる。もてはやされていたものがすっかり悪者になるというような逆転も珍しくない。だからより新しいものへの関心が高まるのだけれど、それもまたたく間に鮮度が落ちて古くなるかと思うと、追いかけるのも馬鹿らしくなる。
だから現代ものの小説をやめて時代ものを書いていると話していた作家がいた。そういえば人気作家が時代ものを書く例は多い気がする。いっそ江戸時代の話となると、古臭さを通り越して新鮮だったりする。人権とか差別といった規制にも神経質になる必要がなくて自由に表現できるのかもしれない。
それに比べて現代ものは、とくについ最近まで真逆の価値観がまかり通っていたものが逆転したようなことがらについては、ただ古いというだけでなく、嫌悪感も同時に想起してしまうのだろうか。
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薬物中毒とかアルコール中毒とか
昭和初期以前の小説にはアルコール中毒や薬物中毒らしき者がよく登場する。
社会からはみ出した者に限らず、芸術家が創作のために流行していたような風潮も見られる。もしかしたら最先端のおしゃれな人たちだったかもしれない。おそらくまだその危険性がわかっていなくて、薬やお酒で幻覚を見るのは今ほど悪いことではなく、ちょい悪程度だったのかもしれない。
違う時代というのはほとんど異世界である。
そういう筆者も歩き煙草や喫煙者だらけの街中を通勤通学していた。当時は外出すると、髪や服に煙草の臭いがつくので、毎日髪を洗い、前の日とすっかり違う服装をしなければならなかった。制服の上着は毎日着替えるわけにいかないので、消臭するのがたいへんだった覚えがある。
そういえば若い女性が前日と同じ服装をしていると、外泊した不良娘のように思われるので、絶対着替えなければならないというような暗黙のルールがあった。
また男性の喫煙はカッコイイとされていて、煙草のにおいが男らしさの象徴みたいに言われることさえあった。
今思うと、あれはいったい何だったのか。
当てにならない価値観
結婚相手に望むことの一つに、必ずあげられていたのが「価値観が同じ人」。今でも政治家が「価値観を共有する国」などと気軽に言ってるけれど、価値観が一致するなんてことは奇跡に近いのではないだろうか。せいぜい「価値観が似ている人」くらいにしておいたほうが無難である。
この価値観というのが時代背景の影響をもろに受けがちな気がしている。さらに生まれた年や育った環境、持って生まれた容姿など、何一つ一致しない者同士の価値観が同じであるはずがない。そう考えるほうが自然ではないか。
それでも共感したいし共有したいし協力し合いたいのが人間である。適当なところでだいたい合っていればよしとする寛容さが大事なんだと思う。
そうすれば、ちょっと古臭い読書も楽しくなる。
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