『人新生の「資本論」』についていけなかったわけ
個人的な将来不安から一年ほど前に『人新生の「資本論」』という本を読んだこと、最近ふと思い出して見直してみた。
地球環境を破壊し尽くし、格差で人を不幸にしている資本主義をやめ、人が最低限必要な資源は誰のものでもない共有財産とし、果てしない経済成長をめざすのはやめようという思い切った提案であった。いいなあ、と思いながら読んでいたのに、すっかり冷めてしまったのはどうしてだったのか思い出していた。「とてもかないそうにない夢物語のように感じたから」というのとも少し違う。
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市民運動は苦手
『人新生の「資本論」』の提案に反対どころか、どちらかといえばそうなったらいいなあ、と思っている。
それなのにみるみる冷めていったことにもやもやしていた。エコバック持ってプラごみ分別するぐらいしか能がない自分が何だかみじめになったことを思い出す。
言い訳するのにとても素敵な文章を見つけた。
「これこそ正しいいいことなのだ」と主張するのは悪いことではない。けど「一刻も早くこっちについて動き出さないと地球がヤバいことになるよ」と追い込まれてしまうと無力感でいっぱいになる。
なぜならわたしは仲間を募ったり仲間を作るのが大の苦手だからだ。みんなで一緒に熱くなると、とかくよからぬ方向に行きがちである。遠慮して好きなことができないストレスもたまる。
こんなことをいうと、人嫌いの変わり者のように思うかもしれないが、わたしだってひとりで生きているわけではない。仲間がいらないと思っているわけでもない。だから正直心底困っている。
一方、集団でいるのが好きな人だって気を使わないことはないと思う。
人との距離感はひとりひとりみな違う。いろんな人とそれなりにうまくやっていくためには相当の距離をとらねばならない。離れることで癖とか短所が薄まるからだ。
それでも方向性や意見を統一するためにはある程度の妥協が必要になる。話し合いがまとまらず、もめそうになったりしようものなら、めんどうくさくなってリーダーシップのある者に丸投げしたくなる。こうなると、仲間もくそもない。
集団の中で流されず自由にふるまい、冷静に自己主張し合うなんてことはほぼ不可能なのだ。
市民運動に参加できない自分は駄目なヤツだ。そう言われてるような気がして、冷めるしかなかったのね。
個人と仲間のどっちが大事?
ひとりでは生きられないけれど個人も大事。最近はずいぶん個人も尊重されるようになってきた。
だからあらゆる場面で「わたしと仕事、どっちが大事?」みたいな二者択一問題に悩まされる。状況や立場、気分で揺れ動く。要はバランス問題。どっちが優勢かって話。
きっとみんなそれぞれ得意分野が違うのだ。わたしは比較的ひとりに強くて集団に弱いのかもしれない。
世の中が少しでもよくなるように、集団で活動するのはすばらしいことである。集団になると影響力が増す。
一刻も早く動かないと、地球がどうにかなってしまうかもしれない。時間がないと心配する気持ちもよくわかる。
養老孟子さんは、過去に巨大な天災が発生し、そのたびに社会の仕組みが作り変えられてきた歴史を振り返り、『僕はいつも「地震待ちだ」って言うんですよ。』と述べている。
人間が何でもコントロールできると信じて作り上げてきた世の中に行き詰まりを感じる今、自然が存在感を増してきている。これも必然なのかもしれない。
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