わたし自身、「多様性」ということばを嬉しがってむやみに使いがちである。
多様性というと、何だかすべてが気持ちよくまとまる気がしていた。
その一方、どうしたって受け入れがたい境界線があることについて、どう考えればいいのかわからなかった。
村田沙耶香氏の「気持ちよさという罪」を読んで
村田沙耶香氏の『信仰』の中に「気持ちよさという罪」というエッセイがある。過去に朝日新聞に掲載されたものらしい。
笑われて、キャラクター化されて、ラベリングされること。奇妙な人を奇妙なまま愛し、多様性を認めること。この二つは、ものすごく相反することのはずなのに、馬鹿な私には区別がつかないときがあった。
読んでハッとした。
年齢、性別、人種、経験、趣味嗜好など異なる存在を認め合おうというのが多様性を尊重するということである。少し前には生物多様性ということばももてはやされた。
しかし現実は「価値観を共有する者どうしの同盟」といったお友だちグループが別のグループと対立してもめごとが絶えない。
それぞれ考えも異なれば許容範囲も異なり、ルールも異なるんだから無理もない。
托卵(たくらん)は詐欺か
托卵とは、他の種類の鳥(仮親)の巣に産卵し、その鳥に育てさせることをいう。多くは仮親の卵より早く産まれ、仮親の卵を巣の外に捨てる。ちょっとえげつない生存戦略である。
ほかにもカマキリに寄生するハリガネムシやカタツムリに寄生するロイコクロリディウムなど、ぞっとするような戦略で生きている生物は少なくない。
自然界には案外タブーがない。
繁殖にかんしては、そもそも性別がなかったり、性転換するのも珍しくないし、性交なしに殖えるものもあることを思うと、浮気相手の子どもを夫に育てさせる托卵女子といわれる存在もまた、いずれ多様性の一つとして受け入れられるようになるかもしれない。
人間はほかの生物とは異なると思いたがるふしがあるけれど、生物の一つに過ぎない。人間だから駄目なことがあるとすれば、どこからどこまでのことなのか。
「いじる」「ふざける」「じゃれる」と「いじめ」の違いは、人によって場合によって異なる。差別化と多様性を区別する境界線もまた、考えれば考えるほどわからない。
多様性は気持ち悪い
「多様性」ということばで気持ちよくなるのが間違いだった。
多様化すれば、混とんとして気持ち悪くなるのがふつうだ。
村田沙耶香氏は次のように結んでいる。
どうか、もっと私がついていけないくらい、私があまりの気持ち悪さに吐き気を催すくらい、世界の多様化が進んでいきますように。今、私はそう願っている。何度も嘔吐を繰り返し、考え続け、自分を裁き続けることができますように。「多様性」とは、私にとって、そんな祈りを含んだ言葉になっている。
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