「おっパン」に見る価値観変遷に翻弄される哀しみ

加害者にもなれば被害者にもなる

価値観の変化についていけなくて、浦島太郎的孤独を感じてしまうのは、おそらくたぶん今に始まったことではない。太平洋戦争の前後を生き抜いてきた人、バブル経済を体感した人、大災害に遭遇した人、ある程度長生きした人、今思えば過去の価値観の危うさに背筋が寒くなる経験をお持ちの人は少なくないのではなかろうか。

変化にうまく適応できずに失敗を繰り返してしまう。もしかしたらかえって実直な人ほどやらかしがちかもしれない。

主人公に半ば同情的気分にさせられるドラマが「おっさんのパンツ」である。どちらかといえばおっさん世代に育った筆者はおっさんの気持ちのほうが理解しやすい。ただ、今はそれ駄目だろうというのも理屈ではわかる。

昔より今のがいい時代に進んでいるだろうか。確かにいい方向に進んでいる面はある。しかし理不尽をなくす方向に進んでいるというわけではない。理不尽は、また別の見えない部分に身を潜めつつ移っていって、助けを求める力のない弱いところに巣くっている。

声をあげるチャンスがきたとき、勇気を出して声をあげる風潮は喜ばしい。その一方、誰もが無神経な加害側にもなり得ることを忘れないでいたい。

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多様な価値観を認め合うとは

ドラマでは<今の価値観にアップデート>といって、あるべき価値観はひとつしかないという印象を与えているが、実際には人それぞれの価値観がある。

こうした多様な価値観を認め合うとはどういうことだろうか。

仲よしグループでもなければ価値観を共有できるグループでもない、極端なところでいえば嫌いでとても賛成できない価値観の存在も認め合うというのが多様性社会なのだ。この時点で多様性そのものに違和感を覚える人もいるかもしれない。

多様性で問題になるのは、こうした相いれない価値観と価値観の関係をどうするかである。多様性の困難さはここにある。そんな苦労をしてまで多様性をめざす理由は、多様であればあるほど自由度が増して個人が生きやすくなると同時にリスク分散できる強い社会になるからだ。

多様性社会を実現できるかどうかは、トレードオフで両立不可能な関係をいかに取り込んでいけるかが鍵になる。

そのポイントは距離と妥協にあると考える。まず対立しない程度の距離を保つことだ。無理に仲良くする必要はないし、嫌いなのにわざわざ顔を突き合わすこともないのである。大事なのは争わないことだ。ただし、多様性の秩序を保つために、相互が実現可能な範囲で妥協に努めることも重要だ。一方的に不満がたまらないように調整する第三者の存在も大切である。

そもそもほんとうに多様性社会を目指すのか。そんなことを求めていない者をも取り込んで、共に生きることができるのか。まだまだ高いハードルがいくつもある。

阿部サダヲさん主演「不適切にもほどがある」も楽しみ。

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