憂鬱になったとき

yuutsuninattatoki

気分の落ち込みや不安を自分でコントロールするのは難しい。

でも、そのときどきにできることを考えてみた。

この頃よく思い出すこと

わたしは阪神大震災の直前に神戸ではじめて出産し、地震の日はたまたま子どもと大阪の実家にいた。配偶者ひとり神戸の自宅にいて、しばらく連絡がとれなくて不安だった。

大阪では日に日に信じられないような被害が報道されるのに、神戸だけ何だか別世界のようだった。大阪は平常通りだったからだ。

配偶者は、神戸から実家のアマガサキまで徒歩で避難。後日、二人で神戸の自宅から身の回りのものを取りに行き、しばらくわたしの実家で同居生活することになった。神戸はインフラの復旧にめどが立っていなかったからだ。

正直あの頃のことはよく覚えていない。子どもが毎日のように夜泣きして、寝不足でたいへんだったこととか、急な同居で配偶者が気を使ってちょっとかわいそうだったこととか、いろんなことがあったけど、何より神戸はあんなにたいへんなことになったのに、ほんの少し離れたところでは、まったく何ごともなく平穏に暮らしている人たちがいるということに、なぜかとてもいきどおりを感じてしまったことをこの頃よく思い出すのだ。

被災者は、わたしと同じようなことを思うだろうか。

その年は地下鉄サリン事件もあって、何とも言えない憂鬱で不安な年だった。母は、子どもにニュースを見せるのを嫌がった。確かに嫌なできごとを見聞きすると、鬱屈するばかりだけれど、だからといって、何も知らずにいるのもまた不安だった。

大小広狭微細粗雑混合

当時は、たいへんだった子どものお世話が、今思うと落ち込みがちになる気をそらしてくれていた。オムツを変えたりお乳をやらないといけない赤ん坊が目の前にいると、自然とその作業に気を取られる。これからの漠然とした不安感がその場はお預けになるのだ。

囚われの身にある聖職者が、毎朝決まった時間に身なりを整え、聖書を読んで祈り続けていたことに胸を打たれた話を聞いたことがある。こんなふうにどんなときも冷静に、やるべきことをするなんてことはできないかもしれないが、「こんなことやってる場合なのかな。」と思うことがある。

世の中には助けを求めている人が無数にいる。困っている人が山ほどいる。それを知りつつ、結局何もできずにいつもどおりの生活を送る。「わたしは怠けているのではないか。」と心苦しくなる。見ないようにしていることに胸がチクチク。わたしだって苦しいのだ!と逆切れてみたり。そんなことを繰り返している日々。

赤ん坊のお世話を卒業したわたしが代わりによくするようになったのが鍋磨きや拭き掃除である。思わず集中してしまう作業がいいようだ。趣味がある人はいいかもしれない。

逆に長大で広い神様視点になってみるのも悪くない。人間のことが嫌になったとき、そもそも人間というのは、こういうつくりになっているから、ついこんなことをしでかしてしまうものらしい。そのうち地球はどんなふうに変わるだろうか。どんな戦略なら生き残れるか。てな具合の読書をしたり思考を巡らすと、うまくいけば、そのうち何とかなるだろうという気になれるかも。

とにかく大小広狭微細粗雑、何でも織り交ぜながら、その場の気分をそらすのがいいように思う。

いつでもどこでも当事者意識を持つことは大事かもしれない。しかし、無関係な第三者がいてこそ、世の中うまく回ることもある。こんなことしてる場合かどうかはともかく、憂鬱をどうにか紛らわせて、ご機嫌でいることに努めるのは、きっと誰かの役に立つ。

そんなわけでわたしは、こんなことしてる場合なのかと内心思いながら、とりあえず鍋を磨いている。

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