こわいこと

kowaikoto

こわいことに遭遇した時、自分だったらどうするだろうと想像してみる。

川が氾濫したら

毎年のように考えるのは台風時の川の氾濫。

うちは川のそばで、ハザードマップでは三メートル浸かるところにある。だからといって、近くに適当な避難場所はない。マップによると、指定の避難場所はもちろん、どこもかしこも浸水地域だからだ。

いつも一番に開設される避難所は、地域交流センターひとつだけなのだが、これがまた安全性を疑いたくなるような川のすぐそばにあり、とても避難する気にならない。そもそも小さ過ぎて、ほんの数人しか避難できないからあてにはできない。それでも避難所に指定されている学校に避難所が開設されることはほとんどない。だから避難指示が出ても、自分で避難場所を見つけるか、自宅にとどまるしかない状態が現状なのだ。

数年前、台風が接近したとき、いよいよ学校に避難所ができるのかと思いきや、エアコンがないから開設できないという知らせが届いてがっかりしたことがあった。

そんなわけでわたしは毎年、適当な避難グッズを持って、二階に垂直避難しながらの神頼みなのである。

案外逃げたくても逃げ場所がないという事態は少なくない気がする。

危険な人に遭遇したら

人間もまたコワいものの一つかもしれない。

できれば危険な人とは関わらずにいたいけれど、思いがけず遭遇してしまうのが人生である。

簡単に逃げることができない状態にあるとき、どんな判断をしたものか。

職場や町内に危険人物が現れた場合、簡単には逃げられない。

そう安易に転職なんてできないし、失業なんてとても受け入れられない。家を買ったばかりで住宅ローンの支払いもあるし、リフォームしたばかりで家を手離すなんて考えたくもないかもしれない。

家族から逃げたいってこともあり得る。

こうなったらいっそのこと、裁判でたたかう選択肢もないではないが、それこそお金も時間もかかりそう。

人間にとって住まいや仕事というのがいかに重大なものか思い知る。ヒトとしての居場所がなくなるこわさなのかもしれない。

もし住まいと仕事の心配、つまり生活の不安がなければ、もっと身軽に今の危ないところから、とっとと逃げ出す決意ができるだろうか。

こわいのは

コワいのは、あたりまえの生活ができなくなるかもしれないという得体のしれないおそれにある。

たとえ今の暮らしに満足していなくても、生活を脅かすものを何よりもコワいと思う。とにかく意地でも今の生活を守りたいとけなげに思う。

もし、どこであろうと自由に働けて、どこに行こうと自由に暮らせて、いつでも一から生活を立て直せるという希望が持てたらどんなにいいだろう。

「なんとかなる」と思える以上の強さはない。

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