平穏無事は当たり前ではない
有名人がある日突然テレビから姿を消すのを見ていると、いつ災害で命や財産を失ったり、犯罪の加害者や被害者になったり、病気やけが、貧困になるかわからないとつくづく思う。どちらかというと悲観的な筆者だけれど、万全な備えをしているわけではない。かといってあきらめて投げやりになるでもない。気づいたそばからできるようなささいなことをやってはおろおろするばかりなのである。
「一寸先は闇」とはよくいったものだ。この先何が起こってもおかしくない。せめてその心構えぐらいはしておきたいと思う。
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ノーリスクを目指さない
「これさえあれば」とか「こうすべき」といった絶対的な対策があるように思いたいのが人情。何かしら頼りになるものを欲しがってしまうものなのかもしれない。しかし貯金や保険、耐震家屋など、備えにはきりがない。何よりお金がたくさん必要である。あれもこれも不安だから備えられるものなら備えたい。ところが現実的には無理とわかったときの絶望感。たとえ備えられたとしても、病気になる人はいる。苦労して建てたばかりの家が被災することもある。そんなことを考えたら、何をするのもむなしくなる。
こういうとき、投資の原則を思い出すことにしている。そういえば先日、ちょうどドラマ「プライベートバンカー」で出てきた格言「卵は一つのかごに盛るな」というリスク分散の法則だ。
そもそも人生にリスクはつきものである。平穏無事があたりまえと感じている時点でかなり危険かもしれない。かといってノーリスクをめざすのは非現実的だ。そこで現実的に抑えられるリスクは着実に抑えられるように備える。テストで着実に点数をとれる問題を見逃さないのと同じような感覚か。そうすると、やってもやらなくてもいいような程度の備えしかできないが、「塵も積もれば山となる」をイメージしながら「案外あれが役に立ったよね。全然期待してなかったけど。」「馬鹿にできないよね。」なんてことを言い合う場面を想像しつつ励むのだ。
あとは神様にお祈りするしかない。
病まないために
弱いから病むのではない。誰でも弱い。そして世の中にはどんなに励んでも、どうにもならないことがある。気候変動や戦争、格差社会に貧困。そうした世界は思うように性急に変わることはない。「一寸先は闇」とはいえ、世の中は思うようには変わらないのだ。
そのことに絶望して病まないために、目をそらさず受けとめることにしている。お化けは見ないようにするとますます怖い。だからちゃんと見るように努めたい。ただ自分の知れる世間はごく一部で狭いことを忘れてはいけない。
そこで自分にできる備えが淡々とできたら、それは上々ではないかと思っている。
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