手ぬいが好き

tenuigasuki

以前から手ぬいが好きだった。

小学生のとき、人気だった手芸クラブに入ったら、とてつもなく裁縫が上手な上級生がいてびっくりしたことを今でもときどき思い出す。話している姿を見たことがないくらいおとなしい地味な女の子だった。周囲がさんざん称賛しても、ただ恥ずかしそうに手を動かすばかりで自慢する素振りをまったく見せない。それが子ども心に衝撃的で「わたしには才能がない」と打ちのめされた。

その後、習字やピアノの世界にも上には上がいることを思い知るたび、わたしは何が好きだったのかわからなくなった。何でもいいから一番になってほめられたかっただけなのか。自分より優れた人を見ると、自分にはあの人たちのような強い気持ちがないと思ったら続けられなくなった。それほど好きではなかったからか、打ち込めるものがほかにあると思ったからか。今となってはわからない。

何かをめざすのも拒むのも、萎(しお)れるのもへたるのも、希望を失い打ち拉(ひし)がれるのも、それぞれに必死で足掻(あが)いているからだ。

都合幸治『今を生きる人のための世界文学案内』より

実用的なものづくりが楽しい

手ぬいに限らず、刺繍や編み物も好きで、思いついては始めるのだけど、上達しないままやめてしまうことを繰り返していた。理由は、実用的なものにならなかったからだ。唯一アクリルたわしに凝ったときは楽しかった。でも、ほかのものを作る編み物の技術を身につけようと思うと、気が遠くなってやめてしまった。

実用的なものを作れるようになるには、それなりの訓練が必要だ。その時間と手間が惜しいから製品を買う。ところが、ほしい下着は自分で作るしかなくなって手ぬいを始めた。つたない手ぬいでつくった下着は、想像以上に心地よく、その作る喜びと充実感ったらない。必要なものを自分で作り、それを実際に使えているからだと思う。今では手づくり下着しか身につけなくなっている。

実際に使うものを作る楽しさは格別だ。はじめは指示どおり作るのがむずかしく、手間ばかりかかっていたが、何回も同じものを作っているうちにそれなりに上達した。最近は間違っていたところや生地が傷んできたところをほどいて、きれいに作り直すのも楽しみのひとつになった。もっともっと上手になって、見られても恥ずかしくないきれいな縫い目で縫えるようになりたいと思っている。

手ぬいの縫い目とミシンの縫い目

手ぬいは、よほど上手な人でない限り、ミシンのような細かな縫い目にならない。じょうぶさに不安を感じるかもしれないが、これが意外と全然問題ない。それどころかやわらかくじょうぶに仕上がる。下手なミシンで生地をつっぱらせたり傷めたりするよりは、下手な手ぬいのほうがマシかもしれない。

生地を傷めず、何回もやり直しがしやすいのも手ぬいのいいところ。ミシンは縫うのは早いが、ソーイングは縫う以外の作業も大事で、それがきれいに縫うために必須であることがわかってきた。丁寧なアイロンがけや、正確な裁断や印付けといった手間は、手ぬいもミシンも変わらない。

とはいえ、わたしもミシンがほしいとこれまで何度思ったかしれない。今は何でもミシンで縫うのがあたりまえになっているし、手ぬいのちょっと大きな縫い目は手づくり感満載で気恥ずかしいからだ。

とくに洋裁はミシンがないとできないと思っていた。でも、ミシンは調べれば調べるほどめんどくさいし場所をとる。お金をかけて一式そろえても、結局使わない人も多いと聞く。それでミシンはあきらめた。

明治生まれの祖母はわたしとオットにゆかたを縫ってくれた。考えてみたら素晴らしい技術である。今、中高年の間で着物のリメイクが人気だという。パンツとブラジャーが手ぬいできるんだから、洋服も手ぬいできないことはない。今はそう思っている。

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