仲良くしなくていい

nakayokushinai

国やご近所、家族間でさえ、平和に過ごすのはむずかしい。夏目漱石先生はよく言ったものである。

に働けばかどが立つ。じょうさおさせば流される。意地をとおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。

人の悩みは100%人間関係に由来し、悩まない者はいない。

人間だって動物である。当然勢力争いをする。だが、むやみにもめてばかりいると疲れる。

たまたま思い通りにいく相手とは気が合うと勘違いし、たまたまうまくいかない相手とは相性が悪かったと思いがちだけれど、自分にどこまでも都合のいい者はこの世にいない。平和はそれなりの努力の積み重ねでやっとこさ維持できるものなのではないだろうか。

人に恵まれるとは

ご近所トラブルや夫婦のもめごとを聞くにつけ、うちは平和でよかったと思う。でもそれは、たまたまご近所さんが穏やかで、家庭内に問題がないからである。

こういうのを人に恵まれているなどということがある。人に恵まれるのは、その人がいい人だからだろうか? 信頼されているから?

「情けは人の為ならず」なんていうけれど、誰にでも親切にできるなら苦労しない。

わたしが今、平和に過ごせているのは、わたしがいい人で人に恵まれたからというわけではない。

たまたまである。

しかし、庭の除草が行き届かず、しばしば雑草が伸び放題になってしまううちのことを、穏便なご近所さんも、内心では不満に思っていてもおかしくない。

また、オットがコロナ禍で失業すれば、今後家庭不和の可能性も大いにありうる。

平和というのは、たまたまの産物で、ちょっとしたことですぐ壊れる。

たとえば、ご近所さんに何かしら追い込まれるようなできごとが起こったとしよう。するとご近所さんは、うちに対する寛容さをいっぺんに失うかもしれない。

また、オットの失業で家賃の支払いが厳しくなったとする。慣れ親しんだ住処にこだわるか、引っ越しを考えるかでもめるかもしれない。オットが無理して働いて、からだを壊すかもしれない。あるいはまったく働かなくなるかもしれない。

といった具合に、ちょっとしたことがドミノ倒しのように生活を一変させることは珍しくないのだ。

穏やかでいい人だからトラブルにならないとか、いいところにお勤めの人だから信用できるとか、これまで問題を起こしたことがないからこれからもだいじょうぶとか、そういうことは案外当てにならない。信頼できる条件をクリアした人としかつきあわないようにしても、人に恵まれるとは限らないし、騙されないとも限らない。人間誰しもどんな状況に追い込まれるかわからないからだ。そして何かの拍子で環境や状況が変わってしまったとき、人もまた変わらないほうがまれなのだ。

しかし、人には親しさや血縁を越えて助け合える力があるように思う。信頼などなくても自動的に助け合えるのが人間の素晴らしいところではないか。

好きな相手や見返りを期待できる相手を選んで親切にするのは誰にでもできる。仲良くしたくなくても、気が合わなくても、ちょっと癪に障る相手でも、困っいて、自分にできることがあるならする。そういう努力の積み重ねが平和維持につながるのではなかろうか。

誰かの助けになることなら、できる範囲で損して割を食うのも悪くない。きっとそうして助けられてきたと思うから。

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