人物が入れ替わる物語はドラマの定番である。山中恒の児童文学『おれがあいつであいつがおれで』の映画「転校生」は有名。つい最近見たNHKのリモートドラマ「転・コウ・生」では、ステイホーム中の男女三人と猫が入れ替わるドタバタ劇だった。
タイムスリップもまた王道物語の一つだ。「仁」「アシガール」現在NHK教育で放映中の「ファインド・ミー~パリでタイムトラベル~」、数えたらキリがない。
自分の中に別の人格が存在するといった物語もまた、多くの人の心をとらえてきた。
「わたし」はどこにある?
先日、入れ替わりの物語を見たとき、最後まで元に戻らないのがちょっと新鮮だった。この頃は元通りにならないパターンもよくあるそうで、入れ替わる生活を受け入れていくのがおもしろい。
ヒトは数十兆個の細胞からなるといわれている。じつはその数も60兆個説と37兆個説があるという。いずれにせよ、ものすごい数の細胞が日々入れ替わりながら生きている。その中で「わたし」というのはいったいどこにあるのか? そういうことは解明されていない。
今、あたりまえのように思っている自分というのは、じつはとてもあいまいなものなのかもしれない。そうだとすれば、ひょんなことで入れ替わることがあったとしても不思議ではない。なんだかよくわからない「わたし」に執着するよりは、むしろ入れ替わるほうが自然かもしれない。などと不思議な心地になった。
タイムトラベラーはみな孤独
『時間は存在しない』という難解な本によると、歴史の年表のように、一本の線上を時間は流れているわけではない。高い山上と低い平野では時間の速度が違うことは実際に証明されている。うまく説明できないが、生まれてから死ぬまでの記憶がわたしたちの時間というものらしい。
タイムスリップは突拍子もないできごとではなく、自分の記憶の中にある思い出旅行みたいなものなのかもしれない。過去に行けば、もっと優位に活躍できるだろうか? 未来に行って、もっと先進的な暮らしをしたほうが有利だろうか? どこかで見聞きした過去や未来を旅し、後悔や過ちをリセットし、希望を取り戻すことができたらどんなに愉快だろうか。
ところが、結局どこに行ってもタイムトラベラーは部外者。共に生きられない孤独に悩むことになるのだ。
同じ時間、同じ時代を共有できる存在というのは、想像以上に大きいものなのかもしれない。
利己的かつ利他的な振る舞い
多重人格は症状だと知られるようになったのはごく最近のことである。ふつうは一つの人格で安定して統制されていることになっている。
でも、人格が変わるきっかけは案外多い。車の運転、メール、飲酒など、ふだんとはちょっと違う自分が顔を出す機会は少なくない。
少なくともわたしは、ひとりでいるときの自分、家族といるときの自分、社会人の自分は同じではない。そのときの体調や気分でも人は変わる。
自分というのは、固定された唯一のものと証明されているわけではない。一つであることが正常なのかどうかも疑わしい。
ところで、人が持つ遺伝子ヒトゲノムは、みなほぼ同じで、コピーミスのわずかな違いや、スイッチのオン・オフのタイミングの違いなど、見つけるのが大変な微妙な差異が大発見につながっているという。それだけ「わたし」と「あなた」は似たものを持っているのである。何かの拍子で入れ替わっても、「わたし」の中に別の「あなた」がいるようなことになっても、ちっともおかしくないことなのかもしれない。
ちなみにヒトゲノムの多くはウイルス由来だという。
ウイルスは自己複製だけしている利己的な存在ではない。むしろウイルスは利他的な存在である。(福岡伸一の動的平衡より/朝日新聞)
ウイルスは生命の進化を加速させるものだとわかってきている。本来親子間の垂直方向でしか伝えることができない遺伝情報を水平方向に種を超えて伝達するものだからだ。新型コロナもまた、ヒトゲノムに新たな情報を伝えに来ているのである。
少々手荒で厄介な伝達者をヒトはこれからどう受け入れていくのか。とんでもない進化がすぐそこまで来ているかもしれないのだ。うまい具合に利己的かつ利他的に振る舞えるといいのだけど。
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