負けん気が強いとかいうけれど、負けるのが好きな人はいないと思う。
勝負を避けるのは
わたしは競争が苦手なので、できるだけ避けようしてしまうのだが、必ずしも負けん気がないというわけではない。むしろ負けるのを嫌がっているという意味では負けん気にこだわっていると言えなくもない。
四年生大学で、しかも音楽を専攻していたわたしの進路は、当時学校の先生くらいしかなく、一般企業に縁故就職するか、留学したり家でピアノを教えるのが一般的だった。
わたしは縁故で金融機関をいくつか受験してみたけれど、男性と同様に転勤をいとわず出世する総合職を目指す女性はまだほとんどいなかったし、学歴社会で音大は相手にされない。そもそも、そんな仕事をする覚悟もなかった。さりとて事務職に四大卒女子はいらない時代である。そんなわけで売り手市場と言われるバブル期のさなか、わたしは入社試験にことごとく落ちた。仕方なく通勤便利なところにある会社の事務をアルバイトですることになり、そこで今の配偶者と出会うことになった。結婚して専業主婦になるのが勝ち組だったころである。どういう立ち位置で就活すればよかったのか、自分がどうしたかったのか、今振り返ってもわからない。わたしの就活はこうしてあっけなく終わった。
こうした就活の失敗がわたしの劣等感の始まりだったかというと、じつはそうでもない。音大でも、これまたわたしより才能豊かな人がいくらでもいて、いつも劣等感のかたまりだった。
勝てないところでずいぶんがんばった。もうそのころから、どこに行っても勝てる気がしなくなってた気がする。
先日、わたしと同世代であろう母親が大学を卒業して就職する子どもについて相談している記事を読んだ。その子は穏やかで友人も多く、これといった問題はないのだけれど、意欲というか向上心がなく、ろくに勉強しないで身の丈に合った進学をし、周囲の助けを借りて何とか大学を卒業して就職するという。こんなふうではこの先何かつらいことがあったとき、やっていけるのだろうか。これでよかったんだろうか、といった内容の相談だった。
相談を受けた先生は、いったい何に悩んでいるのかわからない。わたしはその子が好きだ。きっとまわりの人に助けられながら、困難もするりとかわしていけるだろう。それでいいのだ、といった回答をされていた。
わたしには相談者の気持ちも何となくわかる。どういうわけかしんどいことをやらないと、努力してないとか、怠けてるとか、意欲がないと言われる時代に育ったせいかもしれない。無理な土俵であっても、とりあえず挑戦して汗をかかなければ、なんだかダメなのではないかと思ってしまうのだ。
わたしは何かとしんどがりで、途中で必ずばててしまうので、それならはじめから無理なことは避けようというところがあって、そういう自分が情けないと思うことがたびたびあった。自分にできることをやるだけでは世間は許してくれない。誰にも負けないものがないといけないと思い詰めていた。何かといえば勝ち組と負け組に振り分けられる風潮のせいだったのか。
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
今ならわかる。勝負を避けたのは、わたしなりの戦略だったんだと。
負けん気は見せるだけが能じゃない
新人に人事を任せているIT企業が紹介されているのを見た。
社長によると、新人は新卒者に近いから感覚を理解しやすい。また、その新人の負けん気の強さを見込んでの抜擢だという。
なるほど面接では、自分以上の負けん気を感じない人は採用しないそうだ。周囲の役に立ちたいといったコメントより、誰よりも抜き出ようとするガッツを買うと話す。残業をいとわないのはあたりまえという。
今でもやっぱりビジネス社会はこんな感じなのだろうか。
おそらく、生きてる限り、負けたいと思っている人はいない。でも、何をもって勝利とするかはまちまちである。ビジネスであればお金儲けに違いないが、そのためにどこまで何をしても良しとするかはそれぞれである。
いずれにせよ、相手をねじ伏せてマウントをとるだけが勝ちではない。
能ある鷹は爪を隠すとあるように、負けん気は露骨に見せないほうがわたしは好きだ。
そういう人のほうが油断ならない。
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