社交的でないわたし、世間ではコミュニケーション能力が低く、ひと言もしゃべらない日もある認知症リスクが高い者に分類される。
何かと肩身の狭い身だが、コロナの今はなんだか有利だからおもしろい。
寂しいと思うとき
孤独は避けるべき悪いものとすることには違和感がある。
寂しいとか心細いとか孤独と思うのはどんなときだろうかと考えてみた。
家族がいても、生活に困っていなくても、ひょんなことで人は寂しいと思うのではないだろうか。たいてい理由は後付けだ。アドラー的に言えば、寂しくなりたいから寂しくなるのかもしれない。当たっているかどうかは知らない。
実家の母は、兄家族と同居していても疎外感があるという。認知症の父は高齢者施設にいて会えない。会えたとしても話し相手にはなれない。突然施設に行くことになった父の気持ちは知る由もない。
母のところに、老人ホームに入居して悠々自適に暮らす友だちから電話がかかってくるという。かつてのママ友である。子育てのあの頃が一番楽しかったと繰り返すそうだ。
ポツンと一軒家で一人暮らししている高齢者は、寂しかろうと言われるがそんなことはないと笑う。たまに会いに来てくれる近所の友人や離れて暮らす家族があるからかもしれないが、とくに訪ねてくる者がいないとしても、その地で元気に暮らしていることが嬉しいということもありそうだ。
人づきあいが少ないといっても、一人だけで生きている人はいない。誰かが作ったものを使い、食べ、公共施設を利用し、社会の中で生きている。どんな人であれ、社会の中で何かしら影響し合っている。
寂しさは人生につきものだ。でも、孤独が死ぬほどつらくなったときは、助けてと言える人でありたい。
わたしのように友だちが少ないと、困っていることを打ち明ける相手を探すのに苦労する。誰にも相談できない可能性もある。誰かに話すくらいなら死んだほうがましだと思うかもしれない。悩みが深刻になればなるほど、人を信じなくなるのはよくあることだ。しかし、うかつに死んでしまって、後始末で迷惑がられるのも心外だ。死んだらすぐに見つけてもらえる算段はしておきたいところである。
そう考えると、こんなわたしでもできる人づきあいはしておこう、という気になる。話せないなら手紙を書くという手もある。こうなると、ほんとに助けになるかどうかは問題ではないのかもしれない。社交が得意でないと、ひとつひとつの縁が貴重に思えてくる。
コロナ後は、人づきあいの仕方もペースも多様になることを期待したい。
スポンサーリンク