価値観の相違もさじ加減

katikan soui sajikagen

ひと昔前、離婚の原因は価値観の相違などとよく言ったものだった。そういえば価値観ということば、あまり使わなくなった。価値観なんてのはひとりひとり違うもんだというのがあたりまえになってきたからだろうか。

人間関係は価値観のすり合わせ

価値観とは、広辞苑によると、

何に価値を認めるかという考え方。善悪・好悪などの価値を判断するとき、その根幹をなすものごとの見方。

とある。

なるほど善し悪しのツボがことごとく合わないと、いっしょに暮らすのは難しいかもしれない。反面、まったく一致する人などいないので、どこまで許容するかということになる。

他者との関係は、こうしたあらゆる価値観のすり合わせの連続だ。

わたしが結婚して一番違和感を持ったのは配偶者の歯みがきだった。歯ブラシをくわえたまま椅子に腰かけてテレビを見るなんてのはあたりまえで、そのままあちこち移動。しばらくして戻ってきたと思ったら、まだ歯みがきをしていて、そのあまりの長さに驚いたのだ。

若い頃、迷惑するわけでもないのに、それが何となく嫌だったことを覚えている。なじみのない習慣や細かな違いがいちいち気になる時期だったのかもしれない。

それもこれもいっしょに暮らす時間が長くなるにつれて、いつの間にかどうでもよくなった。それぞれ持ってきた価値観より、いっしょに新しく培われてきた価値観のほうが多くなってしまったからだと思う。

価値観の主導権争い空しい

世の中には優位な価値観とか主導権を握っている価値観というのがある。

多くの人が「あたりまえ」とか「常識」とか「良識の範囲で」といったことばで飾り、当然正しく善いこととされているものなのだが、案外一致していないからもめがちだ。

大きい声で「常識よ!」と言ったもん勝ちみたいなところがある。

いい加減なのだ。

価値観にも時代の流行りがあって、ついこの間までおっきな顔していた価値観も、やれハラスメントだ差別だと今では攻撃の的になっている。バブル期の価値観も、今思えば相当狂ってた。戦時中の価値観は異常だったと言うが、これも当時は主流の価値観だったというから恐ろしい。

不登校や発達障害に対する価値観もわたしの中でずいぶん変わった。当事者になって、知識が増えて、社会福祉に対する価値観も変わったと思う。

価値観というのは、所詮移ろいゆくいい加減なものだと思えば、こだわり過ぎず折り合いやすい。

価値観の相違は多様性の現れでもある。

些末な差異に過敏になってもめることもあれば、話し合いが決裂することもあるだろう。それぞれに個性があるからだ。それでもなお、集まって助け合って生きていくしか道がない。だから難しい。

個性を尊重すれば多様化するがまとまりに欠ける。集団を尊重すれば形骸化してもろくなる。個人と集団、どんなふうに折り合うのがいいんだろ。

きっと答えなんかない。だからごちゃごちゃすることにいちいちめげない。その都度バランスをとって、そこそこの地点で折り合う。そういうことに慣れたほうがいいかもしれない。

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