「幸せになりたい」「平和がいい」「大事な人を守りたい」
望んでいることは同じはずなのに、どうにもかみ合わない。人間関係の悩みのほとんどは、このかみ合わなさに尽きると思ってきた。それはどこから来るのか? そんなことは考えてみたこともなかったけれど、『哲学の技法』を読んで、かみ合わない理由がわかったような気がした。
相手が自分たちとどう違うか。自分たちが相手とどう違うか。
「みんな違ってみんないい」は素敵な詩だ。おそらくこの詩のように思っている人は少なくないだろう。でも、共にこの地上で生きていくということになると、ほんのちょっとした違いがかみ合わない原因になる。違っていいといいながら、その違いに案外無頓着だ。価値観を共有するお友だち以外は敵と考える人も珍しくない。
『哲学の技法』は、西洋出身の著者が西洋に限らず、インド・中国・日本・アフリカなど世界中の専門家に取材し、その地の哲学を比較考察したものである。
大まかに
- どのように知識を得るか
- 世界をどうとらえているか
- 私とはどういう者と考えるか
- どう生きるべきと考えるか
について比較し、興味深い違いを述べている。しかし、よくよく考察してみると、それぞれ重点の置き方が異なるだけで、目指すところはよく似ているか、ほとんど同じだという。
ところが同じことを目指しているにもかかわらず、根本的な差異が広範囲に及んでしまうことがある。それは、ものごとのとらえ方の違いである。
一つは重なり合った円のように親密性に向かい、もう一つはひとつひとつ重なり合わない円のように一貫性に向かう。
(重なり合った円)の視点から世界を見るとき、そこには他の一切のものから完全に区別されるものは一つもない。自己と他者も、主観と客観も、合理と感情も、精神と肉体も別個の対立物ではなく、同じ全体の一部となる。したがって、それらには、明確な境界はない。
一方(重ならない円の視点)は、あらゆるものが他のあらゆるものからはっきりと区別される。もちろん個々のあいだに関わりはあるが、個々の特徴や本質がその関わりに先立つものとしてある。
この二つの方向性は対立しているわけではない。ところが、どちらに重点を置き、どちらを優先するかといった差異があらゆる面で決定的な違いとなってあらわれているようだ。
たとえば、西洋人にありがちとされている個人の個性を重視すれば、社会人としての協調性が弱まって自己責任論が強まり、やがてはコミュニティが解体する方向に進む。反対に日本人にありがちな社会への協調性が優先され過ぎれば、個人が同調圧力に負かされる。
しかしわたしたちは個人であると同時に社会の一員であり、どちらかではない。やっかいなのは、そのバランスのとり方が無数にあることだ。
衝突ではなく出会いをもたらすためには、相手が自分たちとどう違うかだけではなく、自分たちが相手とどう違うかも理解する必要がある。(『哲学の技法』より)
かみ合わないことを恐れてはいけないのだと思う。
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