NHK夜ドラ「VRおじさんの初恋」
ドラマを見ている。原作は漫画だそう。単純に物珍しくておもしろい。おじさんの女子高生、かわいいのに違和感なくて楽しい。服装とか性別とか年齢、こうすれば関係なくなることをあらためて思い知る。ファッションやおしゃれに凝るなら、若い女性を選びたくなる気持ちはわかる。
もともと人間の想像力、妄想、空想する能力はすさまじい。それに科学技術が加わると、これほどリアルにできてしまうことにびっくりした。こうした機材に依存するようになると、やがて想像力が劣化していくなんてことにはならないだろうか。星空を見て、複雑な星座をイメージできていた過去の人から見ると、すでに能力が低下していたりするのだろうか。
人は、頭の中で自由に思考しながら生きている。からだを通じ、見たいものを見、都合がいいように解釈しながらどうにかこうにか暮らしている。
現実を目の当たりにするのは、思うようにいかないとき、見たくない世界と向き合わざるを得なくなったときぐらいかもしれない。頭の中で自由に思考できるから、精神のバランスを崩さずにすんでいるのかもしれない。頭の中と外の世界を行ったり来たりしながらなんとか生きている。
VRおじさんは、内と外の世界をさまよう、どこにでもいる人間の姿をあらわしているのかもしれない。
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「贅沢貧乏」牟礼魔利(むれマリア)の妄想えげつない
VRにいそしむおじさんを見て、森鴎外の長女で作家の森茉莉氏の名作「贅沢貧乏」を思い出した。森茉莉氏自身と思われる主人公、牟礼魔利(むれマリア)の貧しくも気高い暮らしぶりが事細かに書かれた作品である。
ぼろアパート住まいで、何をどうつくろったところで豪華な暮らしなどできるはずがない現実。
<貧乏臭さというものを根こそぎ追放し、それに代わるに豪華な雰囲気をとり入れることに、熱中しているのである。>
そのこっけいさを突き放したような冷静な目で見ているところに一種の哀しみを感じさせる。と同時に生きるたくましさを感じてしまうのは、現実と想像の世界の絶妙なバランス加減のたくみさにある。
魔利が豪華の空気を出す—-魔利の目だけに映る幻の豪華である—-方法には天井は関係なかった。天井はあまり見ることはない処(ところ)だし、煤(すす)が下がっていても、魔利の豪華は傷つかないからで、あった。四方の壁は淡黄が汚れて褐色(かっしょく)をおびているし、畳は番茶で染めたような色をして、ぼこついているが、これらも魔利には関係が、なかった。(略)
魔利はそんなわけで、天井と壁と畳は放ってある。
贅沢貧乏
その一方、家具調度品や洋服に対するこだわりはすごい。アンティック志向、本物志向。今でいう百均やファストファッションなどもってのほか。百貨店の家具売り場や新築モデルハウスのような新品で小ぎれいなものは貧乏臭いと切り捨てる。
その自身のセンスが他者から理解されず、笑われていることも承知の上で貫く。そうしてうっとり陶酔のときを満喫する魔利はいとおしい。
内と外のバランス問題
VRおじさんも牟礼魔利(むれマリア)も人間の内と外のバランス問題を提起している。
人は引きこもるだけでは生きていけないし、だからといって外からのものに翻弄される一方だけでもまた自我を健全に保つことはできない。どっちも必要でどっちともうまくつき合っていくしかないのだ。
刻一刻と変化する条件下で、どんなふうに内と外のバランスをとればいいのか。生きる戦略はつどつど考えながら試行錯誤するしかない。
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