ひきこもり白書

hikikomori hakusyo

ひきこもり白書2021」が刊行されたという記事を読んだ。当事者1,686人の聞き取りをもとにした報告である。これまで見えてこなかった当事者の姿にちょっと戸惑った。

わたしってもしかしてひきこもり?

ひきこもりでない人ってどういうの?

ひきこもりというのには、いちおう定義がある。

国の調査では、「趣味の用事のときだけ外出する」「コンビニなどには出かける」「自室から出るが、家からは出ない」などの状態が半年以上続いていることをいう。

ところが、自宅で仕事をしていたり、介護や家事、育児をしている人は除かれてきた。

しかし、こうした人の中にもひきこもりを自認して苦しんでいる人が相当数いることがわかってきたのである。

わたし自身、確かにひきこもり主婦と表現することがある。状況的にはほぼひきこもりである。しかし、好きでひきこもっているところがあるので自覚がない。とはいえ、ならばきちんと社会生活できるのかと問われたら自信がないあたり、やっぱりひきこもりなのかもしれない。

ときには、家族以外の人と、もっとつながったほうがいいのではないかと思わないではない。人が嫌いとか、コワくて動けないほどでもない。ただ、どうにも人づきあいがおっくうで、ストレスに思うたちのようだ。わたしのソーシャルディスタンスが大き過ぎるのかもしれない。距離をとって眺めているくらいが好きなのだ。

つきあいが悪いと、誰も助けてくれないかもしれない。そんな不安もなくはない。しかし、だからといって、そのためにおつきあいをするというのも妙な話である。ちょうどいいディスタンスで寛容な気持ちでいることがわたしにできるかかわりかたなのだ。

問題は、物理的にひきこもっているかどうかではない。どんな状態であれ、人とかかわれなくて困っていたり、孤独に悩んでいる人の存在を認めることが大事なんだと思う。あせらずゆっくりひきこもっていられる環境にないことも状況を深刻化している気がする。

こんなことをいうと、人は誰しも孤独を抱えているものだというかもしれない。そのとおり。母は、老いるだけで孤独を感じるという。「一日じゅう、誰とも話さないでいると認知機能が衰える」とか「友だちづきあいが活発な人ほど元気」などと言うけれど、そうかもしれないし、そうとも限らなかったりして、あてにならない。人とのかかわりかたに正解はない。

自分ではどうにもできない苦しみは比べられるものではないし、救いや助けを求めるのは、思っているほど簡単ではない。だからどんどんさびしくなる。

そういうことは、おそらく誰しも思い当たるのに、気づかなかったり忘れていたり、ときに知らんふりをしてしまう。ときどきでもふと、ひきこもりになる心境に思いを寄せる人が増えれば、世の中の居心地が少し変わるだろうか。

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