人づきあいの儀式

gishiki hitozukiai

わたしは社交的でないこともあり、冠婚葬祭などの儀式に疎い。軽視していた時期もあったのだが、これはこれで人づきあいのカタチとして大事なのかもしれないと思うようになっている。

ところが、世の中の変化はすさまじく、あれよあれよという間にそのカタチは多様化していて、やっぱりわけがわからず、結局疎いままだ。

人づきあいの中身とカタチ

人づきあいは中身が肝心かカタチが肝心か。

一見すると、中身に決まってると思いがちだけど、人づきあいの中身と言われてもよくわからない。

こちらがよかれと思っても、相手は失礼ととるかもしれない。しかし誰かの常識に違和感を覚えることはよくあることだ。だから何となくいちおう共有できるカタチがあるのは便利なことなのだ。

しかし、カタチも行き過ぎると堅苦しいしめんどくさい。ところがそういうのがことのほか好きな人がいて、無知を非常識と責められておもしろくない。

人が寄るとき、共有できるものが何もないのは困るが、ガチガチに縛られるのは厄介だ。ほどほどがいいと思うのだけれど、そのほどほどが皆違うからややこしい。

結局、儀式を重んじカタチをしっかりならう者に「どっちでもいいや」という者は、めんどくさいからはじめのうちは適当に黙って従うのだけれど、そのうちおっくうになった無礼者が出現するようになってきて、ガチガチだったカタチがほどほどに破壊されていくのかもしれない。

いとおかし。

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