「不安」と「困る」の違い

fuan komaru chigai

先日、ある女子大生が話していた。「困っている人」が対象というのだったら、きっと助けてと言わなかった。世の中には自分以上に困っている人もいるだろうから、もっとがんばらないといけないような気になるのだという。きっと自分は困っている人には当たらない。だから苦しくても助けを求めなかったのだ。

しかし、そのNPO法人は「不安な人」を対象に呼びかけていた。だったらわたしも不安だから助けてもらっていいかもしれない。女子大生は、そこでようやく助けを求めた。

「困っている人」ではなく「不安な人」だったから女子大生は救われたという。

言葉遣いというのは、つくづくむずかしい。

主観のないことばはない

ドラマ『相棒』の名作「アンテナ」の一場面を思い出した。

杉下が長年ひきこもっている青年に語るセリフにこんなのがあった。

人は誰でも話をするとき、どうしても主観が入ってしまうので、100%誰かのために話をすることはできない、というものだ。しかし、それはあなた自身も同じ。相手の言葉に主観が入っているからといって、あなたを裏切ったことにはにはならないと続く。名セリフである。

ことばは、それを発する人にも受け取る人にも主観がある。それが行き違ったり誤解が生じるのは当然のことだと思っておいたほうがよさそうだ。

それを最小限にするために、対話して訂正したり、妥協して折り合ったり、ときには距離をとったりしながら、めんどくさいやりとりを積み重ねているのだと思う。

「安心」と「安全」

ついでに、ここ最近やたらとセットで使われることに違和感を覚える「安心」と「安全」ということばを思い出す。「安心」というのは非常に主観的なことばである一方、「安全」は共通認識できる基準が作れそうなことばだ。

ちなみに「安心」と「安全」をくっつけたがるのは日本だけらしい。

あいまいな「安心」をくっつけることで、「安全」までどこかふわっとしたいい加減なものになりそうだが、そのほうが日本人にはかえって何となく「安心」なのかもしれない……。

同調圧力が強いと言われる一方、「みんな違ってみんないい」を尊ぶところもある。何がいいんだかはっきりしないところがらしいといえばらしい。

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