わたしは強度の近視で、若いとき、レーシック手術を受け、一時1.0以上の視力を取り戻した。
ところが、事前に説明されていたとおり、年齢と共に視力は落ちていき、今では老眼も始まって、近くも遠くも見えにくい。
レーシック手術をしたことについては後悔していない。なぜなら、何もしなければ、わたしの視力は0.03ぐらいで、眼鏡だけでは矯正が難しく、コンタクトレンズが手離せなかった。現在視力がどうにか0.6前後キープできているのは、レーシックのおかげなのだ。
とはいえ、近くも遠くもこう見えにくくなってくると、何をするのもおっくうになって困る。人間の目は、じつによくできていて、繊細にピントを合わせてくれていたのだなあ、と感心している。
見えにくくておっくうになる家事
見えにくくなっておっくうになったのは、家事のなかでも掃除である。
掃除は近くから遠くまで、合わせたいピントが無数にあるからだ。手元が見えなくても困るし、少し遠くのほこりが見えづらくても困る。遠くも近くもはっきりしなくなり、掃除の意欲がすっかり減退している。おかげでどこもかしこもほこりだらけ。気づいたところをあわてて掃除するような感じである。こうして人は年をとっていくのだなあ、などと思ったりしている。
パソコン作業や読書は、案外何とかなるものだ。文字さえ読めればいいからだ。しかし、文字だけにピントを合わせればすむ生活などないのである。何をするにも複雑多様なピント調整が必要で、しかもピントのことなど意識することなく瞬時に合わなければ支障がでる。カメラのようにピントが合うのをいちいち待っているようでは何もできない。
近視用の眼鏡と中近両用の眼鏡と裸眼を駆使してどうにかこうにかピント合わせをしていると、人のからだの能力の偉大さを思い知らされる日々である。
そんな優れた能力も老化には勝てない。やがて少しずつ衰えることについては、徐々に受け入れながら暮らすすべを身につけなければいけないのかもしれない。
ピント合わせのトレーニング
近くと遠くにピントを合わせるトレーニングがある。老眼が始まる前からやると、老眼になるのが防げるらしい。すでに老眼のわたしにどれだけ効果があるのかわからないが、老眼が進むのを遅らせることができるという。
以前からこういうトレーニングがあるのは知っていたがどうも続かない。
朝の体操に入浴時の舌回し。さらに老眼トレーニングか。この調子でどんどんメンテナンスのトレーニングが増え続けるのかと思うとちょっと滅入る。
元気に年をとるというのはたいへんなことみたいだ。
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