問題は解決するものではなくて

mondai kaiketu

世の中も個人的にも問題が山積していて、そのほとんどが到底解決しそうになかったりする。

何を持って解決とするのかにもよるが、多くの場合、損得も正誤も善悪もはっきりしない。立場や思考によって、答えは違ってくるからだ。

養老孟子氏が述べていたように、すべては釣り合い問題なのではないか。

これまで、どんな問題にも、どこかに誰もが納得する正解があるように思ってきた。でも、みんなが同じひとつの正解を目指すスタイル、警戒したほうがいい気がしてきた。

ひとりも施設も同居も

母のところに毎日のように電話をかけてくる元ママ友は、配偶者を長年介護して看取り、ひとり高齢者施設に入居することを選んだ。それぞれ独立して暮らしている子どもたちの負担になることを避けたのである。ひとり暮らしをするには健康上の不安があって施設に入ることを決めたのだったが、いざ施設での新しい暮らしが始まってみると、いろいろな不満がわいてきて、ひとりでいたほうがよかったと話しているようだ。

経済的な不安がない分、恵まれているように思うのだが、人の幸福感や満足度、ストレスなんかはかんたんに測れるものではない。

思いがけない事情で兄夫婦と同居することになった母は、同居の家族がいるにもかかわらず、疎外感や孤独感があるという。同居しているからこそかえって感じる寂しさがあるのかもしれない。

母も結婚後、実母とずっと同居していたが、ほんとはずっと別居したかったらしい。嫁と姑の関係に限らず、親との同居には何かとわずらわしさがあるものだ。

わたしも阪神大震災に被災したとき、産後間もなかったので、二年ほど実家に同居していたからわかる。勝手なもので、楽な反面、窮屈なのだ。

母もまた、親を疎ましく思う気持ちが思い当るだけに、立場が変わった今、複雑な心境なのだと思う。

世の中の問題は、すべて人間関係に集約される。

中でも家族間はもっとも折り合いをつけるのが難しい。

何でもすっきり解決しようとし過ぎてないか

家族間の問題が一番困難になる理由は、思うように距離をとるのが難しいからではないだろうか。

折り合いが悪いからといって、家族のように関係が近いほど、距離をとるのが難しくなる。経済的などの力関係が露骨になるのも家族間である。

家族は社会の縮図なのだ。

どんな環境に置かれるかは運である。でも、だからこそ、置かれた身の回りの問題について、できうる折り合いに努め続けることが生活なのではないか。

ときに逃げるもよし。場合によっては縁を切る覚悟が必要なことがあるかもしれない。

大半は、つかず離れずめんどくさい折り合いを繰り返すものの、何がどう解決するものでもない。気が向いたとき、余裕があるとき、思いやり助け合う。そうでないと負担になって続かない。そんなだから不満が耐えなかったりする。しかし、本来人づきあいというのは、そうしたいい加減を積み重ねてやり過ごしていくものではないだろうか。

何でもすっきり解決しようとし過ぎてないか。

すっきりきっちり平等に不満を分かち合うことなど不可能だ。問題というのは、あちらを立てればこちらが立たないものだからだ。しかし、迷惑をかけずに生きられる人はいないし、助けにならない人もいない。

問題がすっきり解決しないからといって、むやみに不安にならないで、どうにかこうにか折り合い続けられる人でありたい。

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