分かり合うより折り合いたい

wakariau yori oriau

大雑把で炊事が得意でないわたしに、夫は昔から寛容な人だった。
「家事はそのときできる人ができることをすればいい」という考えで、献立や味付けに不満を言われたことがない。
世の中には品数の豊富な献立や弁当を日替わりで求められ、それをあたりまえのようにこなしている人もいるが、わたしは駄目な主婦劣等生なのだ。
それに比べて夫は、こんなわたしに都合よく寛容で、じつにできた夫なのだ。

つい先日、そんな寛容な夫がわたしにめずらしく文句を言った。
夫がパスタを茹でるお湯を沸かそうとしたとき、ふいにわたしが「鍋のお湯が多過ぎる」と言ったのだ。さらに「プラスチックのリサイクルゴミに、においのついたものは入れないで」と続けざまに言ったのがまずかった。「どうしてそんなに非難がましく言うのか」と抗議された。

まったく悪意なく、気づいたことを言っただけのつもりだったわたしはびっくりした。とはいえ言い方や態度が癇に障るものだったんだろう。わたしは父にも口のきき方が悪いとよく叱られていた。

悪かったと言えば済むことを「そんなつもりで言ったんじゃない」と言い訳ばかりしてしまった。

じつはこれまでも、ほとんど怒らない夫をごくまれに怒らせてはビビった前科がある。ふだん穏やかな人が怒ると実にコワい。でも正直なところ、わたしには夫の沸点がよくわからない。

わたしは大した度胸もないのに、考えなしに思ったことをそのまま口にしてしまう雑なところがある。嫌味が言えるほど利口でない。おおかた悪気はないのだが、少々無神経なのだ。

この年になって、少しは考えるようになったつもりだが、浅はかな性分はそう簡単にはあらたまらない。いまだに失敗する。引っ込み思案で非社交的なのが幸いして、よそでは大きなトラブルにならずにすんでいる。典型的な内弁慶である。

一見穏やかで安定して見える夫も人間である。当然虫の居所が悪いこともあるだろうし、いらいらするときがあってもおかしくない。でも、大声を出したり貧乏ゆすりをするといったわかりやすいサインがないから機嫌が悪いのもわかりにくい。そういうのを悟らせまい、としているかどうかは知らない。夫の本心は知る由もない。

いっしょに暮らしている家族のこともろくにわからないのだから、人のことなどわかるはずもない。

それでもどうにかこうにかして、人はいざとなったら協力し合えるのではないか。そうでないと、この先人は、生き残れない。

この数か月のコロナ禍で、そんなことを考えている。

どうにかこうにかして協力するというのは、意見を一致させることではない。共感できなくても妥協して折り合うことだ。押し通すばかりでなく、ときには捨てたり譲ったり、我慢や不満が偏らないように、なだめたりすかしたりして、納得する合意を目指すのだ。めんどくさい手続きを惜しまないことをいう。

そもそもひとりひとり別人格なんだから、ぴったり分かり合えるほうが不自然だ。それなのに分かり合えると信じ、一致団結を重視して、折り合うことをないがしろにしてしまったのではないか。

だいたいのところをうまい具合に合わせれば(それが難しいのだけど)、理解し合えなくても、人は自動的に助け合えるようにできてるんじゃないだろうか。

折り合って協力し合える世の中になったらいいな。

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