止まると死ぬ経済の中で暮らすということ

tomarutoshinu keizai

人の移動が止まるというのは、あらゆるところにたいへんな影響を及ぼすんだとあらためて思い知る昨今。

わたしはもともとうちにこもって暮らしているので、とくに変わらないのだけど、こうして不自由なくこもって暮らせるのも、人やモノが動いてくれているからなんだと実感している。

ようやくコロナが落ち着いてきて、ぼちぼち動き出してきたことはうれしいことに違いない。でもまた感染者が増えれば、また現場がひっ迫し、また止まらなければならないのかと思うと複雑な心境。

いつ来るかわからない災難にどれだけ備えられるか不安

このところ、経済を立て直すことが中心になってきている。倒産や失業者が増えることは避けられそうもない。生活困窮者の支援が大事な課題になりそうだ。

そんなこんなでコロナの感染拡大でひっ迫した現場の問題が終わったことのように忘れ去られていくのも心配。

感染者を受け入れて奮闘した病院がことごとく経済的に苦しい状況になっているというのにショックを受けた。尽力した医療機関が馬鹿を見るなんてことがあっていいはずがない。

コロナ前から救急患者のたらい回しは問題になっていた。でも膨れ上がる医療財政を抑えることを優先し、いつも一部の志ある現場の熱意や意欲に頼ってきたのである。そんなのは長続きしない。いつ破綻してもおかしくない。

限りある資源をどこに充てるか。家計も同じだから難しい問題であることはよくわかる。いつ来るかわからない防災にはとても手が回らない。その言い分もほんとよくわかる。

あっちもこっちも大事だけど、どこもお金が足りないのよね。ほんとどうすればいいのか教えてほしい。

どうしてこうお金がないと何もできないことになってしまっているのか。

経済が止まれない理由

テクノロジーが進化して、世の中は便利になったけど、困窮したとき、とりあえず寝食に困らないようなセーフティネットはほとんど充実しないままだ。

経済が動いている限り、暮らしには困らないことが前提になっているからだろうか。

実際は経済が動いていても困窮する。しかし経済が止まると、暮らしへの影響は計り知れない。

昔は自給自足の農家が困窮者のセーフティネットになっていたという。今は生活保護がそれにあたるが、給付金がはたして自給自足の農家以上のセーフティネットになっているかどうか疑わしい。

子ども食堂や炊き出しのような現物支給をもっと広く充実させる必要があるかもしれない。寝食を提供するところには、積極的にバックアップすることも重要だ。善意に頼るだけでなく、善意を応援する仕組みも充実させたいところである。

セーフティネットは、自給自足の農家のように、経済の動向から独立して構築するのが理想である。しかし、そうすると善意頼みになるのが弱点だ。資本社会とは別の枠組みで、負担なく民主的に運営する仕組みがほしい。

困窮は、生涯誰にでも起こり得るリスクである。「困窮してもどうにかなる。立て直せる。」そう思える世の中にできたら最強だ。

もし、誰もが立て直す時間をゆっくり持てるようなセーフティネットがあれば、防災で一時的に経済を止めるようなコントロールも可能になるかもしれない。

今後は経済を動かしながら感染対策をすることになるが、動きを止めずに感染拡大を防げるかどうかはわからない。経済を止めないように頑張れば、医療現場が崩壊し、救える命も救えなくなるかもしれない。しかし、また不用意に経済を止めれば、取り返しのつかない痛手になりかねない。

ならばいっそ、暮らしに影響しないように、うまく止める方法を模索しておいたほうがいいかもしれない。

セーフティネットはコストとばかりに削減こそすれ充実させることなど考えもしなかった。しかし、弱過ぎるセーフティネットはリスクにもなり得るのだ。そう考えれば視点が変わる。

新しい生活様式というのは、止まったら死ぬ経済の中で、感染に怯えながら暮らすことだ。わたしにできることは、うまく巣ごもりして生き延びる方法を模索しておくことだろうか。

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