「韓国では、日韓関係が大事だという前提が欠落してきているように思う」と述べる政治学者の記事を読んだ。
日韓の関係に限らず、それぞれの人が対人関係は大事だという前提を持たなくなってきている気がしてコワイ。
お金と引き換えに失うもの
いろんなめんどくさいことがお金でどうにかできるようになってくると、めんどくさい対人関係もついお金で解決したくなるのも無理はない。
実際に、親子間や夫婦、隣人など、簡単に切れないめんどくさい間柄に生じる手間ほど、お金を支払うサービスで補う傾向があるとか。
アドラーによると、人の悩みはすべて対人関係。それがお金で解決できるなら、お金さえあれば、対人関係にともなう不幸は避けられるということになるけれど、残念ながら、現実はそうならない。
大切に思う証としての贈り物がやがて単なるコストに変わっていくのは、働く人が単なるコストでしかなくなる市場社会に生きている宿命なのか。
対人関係を重んじる気持ちを損なわせているのは、お金のような気がしてならない。
対人関係はお金儲けより大事
思えばうちも家族崩壊の危機が何度かあった。
発達障害でひきこもりがちの子どもと、働かない主婦、ひとり家計を支えるオットの家族3人、みんなそれぞれの立場でばらばらに考えて意思疎通をあきらめてしまっていたら、もしかしたらとんでもないことになってたかもしれない。
わたしはオットに働いて稼ぐことを期待され、わたしもその期待にこたえたいと思っていた時期があった。ところが最近のオットは、わたしに無理するなと言ってくれる。家計が改善したわけでもないのに。
当時オットは、わたしに収入が少ないとプレッシャーをかけられているように感じていたそうで、それならわたしが働いて稼げばいい、と思っていたようだ。わたしも不安がるだけでうまく節約できる主婦じゃなかったし、オットがむっとするのも無理なかったと今ならわかる。
もちろん、わたしはオットにプレッシャーをかけていたつもりはまったくなくて、これだけ足りないとか、これだけ赤字といった現状を説明して、相談しているつもりだったのだけれど、オット的には、これ以上どう働けというのか、と思ってたみたい。そんなふうに言われて、ハッとした記憶がある。それで、こんどはわたしのほうがオットの期待をプレッシャーに感じるようになったのだ。
それがお互いに年をとって、年金暮らしのことや子どもの将来ことを話し合っていくうちに、なるべくお金を使わない生活にしたいね、という合意が徐々にできてきたんだと思う。
オットは、子どもの発達障害による問題や家計の問題が話し合わざるを得ない状況を生み出して、それが結果的に家族関係をよくしているのではないかという。
家族間でも、家族間だからこそ、わざわざ時間を割いて話し合うのは案外難しい。とくに差し迫った問題がなければ、わざわざ対話しないかもしれない。でも、話をしないと、些細なことで簡単に行き違うし、誤解が生じてこじれてしまうことがしょっちゅうある。子どもとは、まともに話し合えない時期が何年も続いて、何度も心が折れそうになったけど、あきらめなくてよかったと思う。
家族ひとりひとり、価値観や考え方が違うということをつくづく実感させられるのも話し合ってはじめてわかったことである。また、家族といえども、自分の意見が100%通ることはまずないことを知るいい機会にもなった。
言いっぱなしや聞きっぱなしになっても、気にしないことも大事だ。時間が経ってから思いがけない反応があったり、気持ちが通じ合ったりして、まったく無駄になることはないからだ。聞いてもらうことで気持ちが落ち着いたり、考えがまとまることもある。
長いこと持ち越しになる問題も珍しくないけど、忍耐強く認識し合うことに価値がある。結論を出すことが重要なんじゃなくて、顔を合わせて話し合いを続ける姿勢が互いに協力しようという気持ちを育んでいると思うからだ。
とはいえ、誰とでも協力し合えたら苦労はしない。ときには関係を断つというのも方法だし、もちろんそうしたほうがいい場合もあると思う。でも、それは対人関係が大事だという前提で距離を置くということであって、めんどくさいからおろそかにしていいという話ではない。
だけどわたしを含め、断つことしかできなくなって困っている人も多いのではないかと案じている。人を大切にする手間が無駄なことのように軽視されがちだからだ。そんな余裕もなく、ただ忙しいせいもあるかもしれない。
社会的動物である人間は、ひとりでは生きられないし、世の中気の合うお友だちだけではない。それでもいっしょに生きていて、いろんな人で社会は成り立っている。いっしょに生きている以上、対人関係はお金儲けより大事だという前提が欠落するリスクは計り知れない。
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