社交的でないひきこもりがちな人物がドラマや小説、漫画なんかにもごくあたりまえに登場するようになった。登場するどころか主人公であることも少なくない。
そういえばひと昔前は、社交的であることがあこがれの要素の一つみたいなところがあったように思うが、今はすっかり聞かなくなった。代わりにやたらとコミュニケーション能力なるものが求められるようだ。
社交性は生まれながらのものだから仕方ないとしても、コミュニケーション能力(いわゆるコミュ力)は、努力すればある程度誰にでも身に付けられる技術的なものという考えがあるからだろうか。
社交性とコミュ力
社交性とは、辞書によると、
人とのつきあいを好む性質。また、人とうまくつきあってゆける性質。あるいは社会を形づくろうとする人間の特性。社会性。
とある。もともと持っている性質の傾向である。
これに対してコミュニケーションというのは、
社会生活を営む人間の間に行われる知覚・感情・思考・の伝達。言語・文字その他視覚・聴覚に訴える各種のものを媒介とする。
つまり、コミュ力というのは何らかの方法で意思疎通する能力のこと。
だから社交的でないからとか引っ込み思案だからという社交性の低さは、コミュニケーション能力がないことの決定的な言い訳にはならないということになりそうだ。
これはこれでなかなか厳しい世の中になってきているのかもしれない。
コミュニケーションも多様化
とはいえ人間ひとりでは生きられない。どうにかして誰かと意思疎通、つまりコミュニケーションをとるすべを身につけておくことは大事である。
今はインターネットのおかげでコミュニケーションの手段が多様化している。音楽や映像、手作り作品などを直接マイペースで発表することも可能になっている。それぞれ可能な方法でコミュ力を磨くことができるのだ。
社交性も資金も乏しいわたしがささやかな作文教室ができているのもインターネットのおかげである。
家庭と仕事の両立が無理だったわたしは、オンライン作文教室の講師を続けながらブログの作り方を学んで現在に至る。できることをこつこつ続けてきただけなので、自慢できるような飛躍はできていないが、書くコミュ力はそれなりに身についてきたと思っている。
一対一を基本とする、少人数のコミュニケーションを丁寧に重ねていくマイペースのコミュニケーションが自分には向いていることがわかってきたのも発見だった。
誰とどんなふうに意思疎通したいのか。自分がしやすいコミュニケーションの方法にはどんなものがあるか。一度考えてみるといいかもしれない。
いっしょに音楽を聴いたり、出かけたり、何かを作ったり、コミュニケーションはことばに限らない。頻度というかペースや距離感も、素敵な人を見習うのも大事だが、自分がしっくりきて続けやすい快適なところを探っていいと思うのだ。
コミュニケーションの正解はどこにもない。もめたり苦しくなったとき、うまく逃げ出すのもまた、ひとつの手かもしれない。
個人的には、究極のコミュ力は「助けて」を伝える能力ではないかと思う。
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