身も蓋もないけれど、得する人と損する人の差は、たまたま運がよかったか悪かったかの差ではないかと思う。
そんなことを言うと、努力や才能をないがしろにしていると憤慨するかもしれない。努力や才能を評価したい気持ちはよくわかる。努力や才能を否定する気もまったくない。
でも、努力や才能について過剰に期待するのはどうかと思う。努力できるのも才能が発揮できるのもまた、運が左右しているからだ。
努力しても報われないことはよくあるし、才能があっても得するとは限らない。それぐらいに考えるのがちょうどいい。
努力や能力の比較は当てにならない
じつはわたしは音楽学科出身で、受験前は毎日何時間かピアノの練習に明け暮れていた。
誰よりも長い時間練習をして、誰よりも上手になりたいと思っていたが、実際は学校生活だけでくたくたになって、帰宅後は集中力が続かず、まともに練習できずに焦っていた。毎日5~6時間は練習するといった話をちらほら耳にしていたからだ。わたしにはとてもできなかった。
自分のピアノがいまいちなのは、きっと練習が足りないからだと思ったものだった。
その一方、長時間練習してそうにないのに、さらっと上手に弾きこなしてしまう者もいた。そういうのを目の当たりにしたときは、自分の才能の無さを呪ったものだ。
泥臭い練習をする根性もなければ才能もない。そんな自分につくづく打ちのめされる青春だった。
努力や能力を他人と比べる愚かしさを知ったのは、それからずっと後のことだ。
みんな頑張ってる
みんなできる範囲で精一杯頑張っている。そう気づかせてくれたのは発達障害の子どもである。
うちの子は、誰でもあたりまえにできるようなことが苦手だったりした。それがわからず、当時は怠惰で意欲がないように見えて心配したものだ。親のわたしは「ちゃんとさせなくちゃ」と思うし、本人はみんなできることがどういうわけか自分にはできないと落ち込むことになって、事態は悪くなるばかりだった。
そうこうしているうちに、世の中の発達障害に対する理解が進み、それぞれ思いがけないところに得手不得手があるということが徐々にわかってきたのだった。
子どもが成人してから当時の話を聞いてみると、わけがわからない中、それはもう頑張っていたことを知り、思わず涙ぐんでしまった。
どうしてわたしはあのとき、甘えているとかやる気がないとか怠けているなどと思ったのか。
他の人のがんばりや苦労を知ることはできない。想像することも難しいのが現実なのだ。我が子でさえ、まともに寄り添えなかったのだから。
だからせめて、ほかの人の努力をどうこう言うまいと誓った。
確かに、人間甘えることも怠けることもある。実際には才能や努力を比べられて競争しないといけない。それでも本人が頑張ったというなら、それはきっと頑張ったに違いないのだ。甘いとか足りないとか思うのは勝手だが、言わぬが花である。
才能は運次第
ピアノも勉強もビジネスも、何をやっても抜き出ることができない。むしろできないことのほうが多いとわかってくると、才能のある人がやたらうらやましいと思う。
しかし、才能を有効に発揮できるかどうかは運次第である。
母は、勉強が優秀だったのに、家庭の事情で進学しなかった生徒がたくさんいたと話していた。そんな中でも、何らかの支援を受けて進学する人はいくらでもいるし、学歴がなくても立身出世する人はいる。
戦国時代に活躍した武将たちが、もし今のような平和な時代に生まれていたら、目立たなかったかもしれないという考え方もあるが、時代を超えて、どんな競争に勝つのもうまいかもしれない。
才能とは、今自分が持っていて活用できるものだと知れば、才能がないと嘆く前に、今あるものでできることを考える大切さがわかる。また同時に才能は、他の人の手を借りてはじめて発揮できるものであることにも気づくだろう。
努力と能力と環境すべての偶然が重なり合って条件を満たしたとき、才能は輝かしくまぶしく見える。
才能は運次第とはいえ、だからこそ「持ってる」者を尊び、不運な者を蔑みがちだ。
どうしたってヒトは優劣をつけたがるから困る。
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