『武器としての「資本論」』の著者である白井聡氏は、フレドリック・ジェイムソンの有名な言葉を何度も引用している。
資本主義の終わりを想像するよりも、世界の終わりを想像することの方が容易だ
今わたしたちが暮らしている資本主義社会は明らかに問題がある。このままでは破滅するという人は少なくない。しかし誰も立て直す術を知らない。少し立ち止まることさえできない。現代は、あらゆる世界が資本社会に呑み込まれていくのを、ただ見ていることしかできないでいる。
そんなふうにじわじわ侵食し、増殖していくのが資本主義社会の特徴のようだ。こうした資本主義の本質的な特徴をマルクスは200年前から指摘していた。
だから今こそ資本論を読もうと言われているのである。
コミュニティは復活するか
行き過ぎた資本主義社会に違和感や不快感を覚えるのは、ヒトは矛盾を抱えている生き物だからだ。
資本主義社会とは、白井氏によると、物質代謝の大半を商品の生産、流通、消費を通じて行う社会のこと。平たく言えば、何をするにもお金がかかる社会ということだ。
それまではお金がかからなかったところまで徐々にお金がかかるようになる。たとえば隣近所の調味料の貸し借りや家族間の育児・介護の手助けなど。わたしが子どもの頃は、水がこれほど店で売られるようになるとは思いもしなかった。
お金を媒介すると、気兼ねなく便利である。それでつい、お金を介さない助け合いや監視を担ってきたコミュニティが崩壊することになってしまった。もちろん核家族化や働き方、プライバシー意識の変化など、いろんなことが重なった。
その結果、便利で快適を追求する資本主義社会が行き過ぎてしまったのは間違いない。
かつてのコミュニティがお金を介さない相互扶助や臨機応変で寛容な秩序の維持を可能にしていた面も確かである。
昔のようなコミュニティがいいと言っているのではない。あれはあれで問題があった。
でも、おそらくヒトは、資本主義社会に呑み込まれない部分を持っていたいのではないか。お金ではいかんともしがたい部分があると信じたいのだ。
いかに資本の増殖が及ばない世界を堅持するか?
資本主義社会というのは、どうも資本の性質上、ヒトより資本の増殖が優先されてしまうシステムであることが問題のようだ。都合のいい部分だけ資本主義でいくといったことが困難みたいだ。
『生物と無生物のあいだ』の著者である福岡伸一氏は、言葉や論理によって自然をコントロールしようとすることは、自身の動的な生命を決定的に損なってしまうことにつながるという。資本主義は、生命体であるヒトを破滅に導く論理のようだ。
いかに資本の増殖が及ばない世界を堅持するか?
経済学者のヤニス・バルファキス氏や『ホモ・デウス』の著者ユヴァル・ノア・ハラル氏などは、すべての手続きを民主化することが重要だと述べている。しかし、その民主主義もまた、資本主義に呑み込まれつつあるといわれている。
先の福岡伸一氏は、ウイルスについて、気長にリスクを受容しつつウイルスとの動的平衡をめざすしかないという。ウイルスではないが資本主義もまた、ヒト社会との折り合いを気長に模索するしかないのかもしれない。それまで生きのびているかどうかわからないけど。
最後に、『武器としての「資本論」』の「はじめに」の著者の言葉を引用して終わりたい。
「これを読まないわけにはいかない」と感じて、みんなが一生懸命『資本論』を読むという世界が訪れてほしいと思うのです。そこまで行けば世の中は、大きく変わります。(中略)『資本論』を人々がこの世の中を生きのびるための武器として配りたいーー本書には、そんな願いが込められているのです。
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