チフスのメアリーが教えてくれること

typhusnomary

チフスのメアリーの話はつい最近知った。家政婦メアリーは、チフスの無症状感染者である。料理が上手で子どもの面倒見もよく、仕事ぶりは評判がよかったのだが、先々で感染を広げたとされている。

メアリーは仕事と自由を奪われることに納得できなかった。今から約100年前のこと。当時は今以上にわからないことが多く、メアリーを説得してサポートする体制など不十分だったことだろう。

今はメアリーの頃より改善されたろうか?

公衆衛生と個人の尊厳の折り合いのつけどころに終わりはないように思う。

自分と他者の境目は曖昧

社会と個人のどちらを優先するか? その具合は時代によっても変わるだろうし、人によっても違う。わたしなど、気分や体調によっても変わる気がしている。

生物学的に自分と他者をどのように区別しているかという問題はまだ解決されていないし、無数の細胞からなるヒトを一つの自分としてとらえる理由も根拠もわかっていない。

自分と他者、どちらを優先するも何も、そもそも境目がはっきりしないと知れば、どちらかにこだわらないほうが都合がいいかもしれない。

こだわったばっかりに

メアリーさんはニューヨーク市の衛生局との裁判に負けて、一般の人と接触しないこと、料理の職にはつかないことを条件に隔離が解かれた。ところがその後、名前を変えてあろうことか病院に勤め、再び集団感染を引き起こす。

もし、メアリーが得意とする料理の職にこだわらなければ、人生は変わっていたかもしれない。

人生といえば、きのう「世界まる見え!」で紹介されたルー・パールマンという人の人生も印象深い。

ルーは音楽プロデューサーとしてたいへん有能だった。ところがルーはお金を搾取することに夢中になって、獄中で病死した。ルーは音楽のプロデュースでじゅうぶんまっとうに成功できたと多くの人が証言している。なのにわざわざお金をだまし取ることを繰り返し続けたのだ。ルーは詐欺が仕事だったのか。

人生には、こだわらなければもっとラクにうまく生きられたかもしれないということがよくある。でも、そのときはほかに選択肢がなかったと思いがちだ。

メアリーにとって、得意な料理の仕事を手離すことなど考えられなかったかもしれない。ほかにできる仕事が見つけられなかったのかもしれない。また、ルーは詐欺で得られる高揚感に勝るものがほかになかったのかもしれない。

それでももし、そこにこだわらなければ、別の人生があった。

自分と他者の境界線が曖昧であることを知ると、何かにこだわる愚かさに気づく。譲れば負けといった力関係や貸し借りの感覚もなくなるかもしれない。

境界線などないと知れば、別の道が見えてくる。

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