聖書が31年ぶりにゼロから翻訳されたと聞いて

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日曜日の早朝、NHKの「こころの時代」という番組をたまたまテレビで見ていたときのことだった。

ほかのチャンネルはことごとく通販番組ばかりだったので、そのうちニュースが始まるだろうと思い、仕方なく見るともなしにNHKにしていると、聖書が新しくなったという話で、思いがけず興味をひかれた。

そういえばわたしはクリスチャンだった

こう見えてわたしは、結婚後に受洗したクリスチャンなのだが、すっかりキリスト教とは縁遠くなっている。

こんなわたしが毎週のように教会に通い、クリスマスやイースターなどの集いには家族ぐるみで参加するほど居心地のいい教会とめぐり会い、毎日聖書を読む生活をしていた時期があった。

しかし、その教会から離れると、ほかの教会には通うようにならなかった。教会から縁遠くなると、自ずと生活からもキリスト教が失われていった。

これもたまたまなのだが、わたしは小中学校以外、幼稚園から大学まですべてミッション系の学校に通っていた。そこではあたりまえのように聖書の時間というのがあって、日曜学校に通っていた時期もある。偶然とはいえ、ずいぶん長いことキリスト教を刷り込まれていたようだ。讃美歌と聖書は、わたしにとっては仏教のお経よりずっと身近なものだったのだ。

だから結婚して何となく心細くなったとき、近くの教会に行くことを思いついたのに違いない。

新しい聖書ってどんなの?

長年持っていた聖書は、なかなか手離さずにいたのだが、最近になってとうとう手離したばかりだった。この頃は、聖書の言葉を見聞きしても、ほとんど関心を持たなくなっていた。

それなのに、31年ぶりに聖書が新しくなったと聞いて、どういうわけか読んでみたいと思ったのだ。

番組では「コヘレトの言葉」をとり上げ、前の共同訳と比べていた。生活の中に実用書としてある聖書には、古典としての聖書とは異なり、賞味期限があるという話が印象に残っている。

あれほど興味を失っていた聖書だったのに、妙な感じである。

わたしを洗礼に導いた敬愛する牧師が急逝したという便りが来て驚いたのは、今年の三月だった。十月には父が亡くなった。世の中はコロナ禍でなんだかいつもと様子が変わり、何とも言えない不安に満ちている。

だから無意識に、また聖書に帰りたくなったのかもしれない。

 

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