いい年になっても、新聞を読んだり読書していると、わからないことがあまりにも多くて情けなくなる。テレビのニュースやワイドショーを見ていても、ある時からやたらと使われるようになったことばがよくわからなくて、検索して調べてみると、これがまたいろんな人がいろんな説明をしていたりして、結局わからないなんてこともある。
きっとこんなわたしのような人のために、池上さんが重宝されているのだ。
「羽鳥慎一モーニングショー」の玉川徹氏も好きな一人
いろんな情報が飛び交う中でも、何となく信用できると思う人がいる。正しいかどうかはわからない。
わたしの場合、池上彰氏、佐藤優氏、ひろゆき氏、津田大介氏、福岡伸一氏、養老孟子氏、内田樹氏などなど、個人的な好みで信用している人がたくさんいる。そういう人の記事を見つけると、かならず目を通したくなる。
何がどうということもない。おそらく、わたしの興味のあることについて、比較的わかりやすく説明してくれるからだと思う。モーニングショーの玉川徹氏もその一人。健康オタクっぽいところも憎めない。
高視聴率のワイドショーレギュラーということもあって、玉川氏の言動はしばしばネットニュースで紹介されて注目されている。そんな中、文春オンラインの石戸諭氏の記事がおもしろかった。石戸諭氏は「文藝春秋digital」に 「モーニングショー 玉川徹の研究」の連載作者で、以下の記事はその一部のようだ。
正義の味方か、デマゴーグか?「モーニングショー」玉川徹とは何者なのか。
百田尚樹氏との比較がおもしろい
石戸氏は、記事中で玉川徹氏と百田直樹氏を比較している。
わたしは百田氏のことはよく知らない。食わず嫌いで避けている人だ。映画化されて大ヒットした「永遠の0」もまったく好みでないから読んでいない。
「天皇陛下、万歳!」とか「国家のために一致団結」といった類のことが大の苦手なので、よく知らないが、そうしたことを連想させる百田氏を避けているのだ。反戦といった立派な思考からくるのではない。個人的に団体行動を強いるものに嫌悪感があるのだ。協調性に欠けるからかもしれない。同じような理由で宗教団体にも警戒心がある。
わたしが勝手に抱いている百田氏のイメージが合っているのかどうか心もとない。ただ何となく苦手な匂いがして近づかないのだ。
ところが、そんな百田氏と好感を持っている玉川氏とを比べて、どっちも同じようなもんじゃないの? と石戸氏はいう。
玉川も百田も、大衆には決して迎合せず、「本音」を発すること――あるいは「本音」を発する場を確保すること――で大きな権威と対峙する姿を見せ、人々の心を捉える。彼ら自身が計算しているわけではないのに、彼らの本音や一挙手一投足に賞賛と批判が集まるのは、人々がポピュリストに魅了されていることを意味している。私には彼らの動向に注目が集まること、それ自体がポピュリズムの時代を現す一断面に思えてならない。
また、石戸氏はオランダの政治学者カス・ミュデらによるポピュリズムの定義を紹介し、ポピュリズムは、必ずしも否定するだけのものではなくなってきていると述べている。
「社会が究極的に『汚れなき人民』対『腐敗したエリート』という敵対する二つの同質的な陣営に分かれると考え、政治とは人民の一般意志の表現であるべきだと論じる、中心の薄弱なイデオロギー」(『ポピュリズム:デモクラシーの友と敵』白水社、2018年)
百田氏は右派としてリベラルエリートに対する偽善的姿勢と対峙し、玉川氏はリベラル側からエリート官僚と対峙することで支持を得ているポピュリストというのだ。
へー、なるほど。どっちもエリートと対峙してるのね……。
かつて大衆の不満をうまく利用し、危険なリーダーたちが台頭した歴史があって、賞賛や批判が集中するポピュリズムが警戒されている。わたしも集団で賞賛したり批判したりするのは気持ち悪い。でも、弱い立場の人が集まってデモする姿に賛同することもある。何がどう違うのか。うまく言えないが、集団になると、どうしても強要や洗脳要素が混入しているような感じがして警戒してしまう。賞賛や批判は基本的には個別でするほうがいい。
今回のコロナ騒動では、違う意見に耳を貸し、折り合える点を模索し、連携すべきところは連携することの大事さを痛感している。どんなに立派な考えを持っていても、話し合いができなければ意味がない。人の暮らしは、そういうことの繰り返しだ。
考えが違う、趣味が違うといってもめていたら何も始まらない。同じような人が集まっても、できることは限られてしまう。寄せ集めでどうにかしていくしかないし、寄せ集めだからできることがある。
【イデオロギー】思想傾向。政治や社会に対する考え方。(広辞苑より)
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