おとなが勉強する意味

benkyo otona

勉強の目的がいつの間にやら受験になってて、おとなになって試験がなくなると、勉強しないのがあたりまえになった。

社会問題も対人問題も、試験問題のように解けない。

答え合わせできない問題を考えるのは、なんだか無駄な気がして、いつの頃からか考えないようになった気がする。

もしかして都合よく育てられた?

ヤニス・バルファキスは、

市場社会は人間の欲望を永遠に生み出し続ける。

父が娘に語る経済の話』より

と述べていて、必要ないものまで買わされている現状には嫌悪感を持つとありました。

どうしてこうも考えなしに消費してしまうのか?

現代人は、思考停止しているとよく言われる。

もしかしたら子どもの時から「消費することは素晴らしい」と刷り込まれてしまっているのかもしれない。

学校は、都合のいいおとなを育てる場である。

放っておいて、都合の悪い知恵なんかつけられてはたまらない。

めんどうなことは考えず、よく働いてよくお金を使う、立派なおとなになったというべきか。

勉強に励むか、無知に努めるか

「稼げる資格受験」以外の勉強は、やる意味がない、とさえ思っていたふしがある。

だから答えもなく、教わるでもなく、自分ひとりでするおとなの勉強はピンとこなかった。

知らないことを知ろうと努めることもめっきり減っていた。

新聞に書いてあることを理解しようとすると、あらかじめ知っておかないとわからないことが多くて、結構うやむやにしていることが少なくない。だから池上さんの番組が重宝される。

何かというと「専門家にまかせとこ。」と済ませてきた。

でも、人間は本来、知りたがりで考える生き物。

あることを知らないというのは、ほとんどの場合、それを知りたくないからです。知らずに済ませるための努力を惜しまないからです。

『寝ながらわかる構造主義』より

わたしはずいぶん長いこと、知りたくない世の中に生きてきたのだなぁ、と思う。

一方、養老孟子氏はこんなことを書いている。

ヒトの生活から意識を外すことはできない。できることは、意識がいかなるものか、それを理解することである。それを理解すれば、ああしてはまずい、こうすればいいということが、ひとりでにわかってくるはずである。問題は、意識について考えることを、タブーにしてきたことにある。すべての学問は意識の上に成り立っている。それなら意識を考えることは、自分が立っている足元を掘り起こすことである。学問が意識をタブーにしてきたのは、それが理由であろう。

養老孟子『遺言』より

人間は、知りたがりで考えずにはいられない反面、知ることを恐れ、知らずにおこうと懸命に励むところがあるようだ。

でも、今自分がどっぷりつかっているその居場所が心もとないとき、無知に努めることが果たしてほんとに自分の身を守ることになるのか、考えたほうがよい気がしている。

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