折り合うことについて考えてみた。
広辞苑によると、対立した同士が譲り合って解決をつける。妥協する。折れ合う。とある。
ここに公平とか平等という意味はない。
でも、ここで折り合ったら損とか負けとか考えてしまうのよね。
公平とか平等なんて妄想かもよ
気づけば公平とか平等に取りつかれてることがある。
何をどこまでが公平で平等だったら気が済むのか。
考えてみれば、公平や平等ほど非現実的なことはない。
生まれも育ちも持ってるものも、体格も健康も能力も、みんな違うのに、そういうのを全部、みんなが納得できるようにお金に換算して、公平平等に分配するところまでいかないと、気がすまなくなってしまいそう。
世の中は、哀しいかな不公平で不平等なのだ、といっそ受け入れてしまったほうが、まだ折り合える余地がある気がする。
損は悪という価値観
折り合いを困難にしているのが「自分は損している」「相手が間違っている」という価値観で、それを正すことが目的になってしまうと、折り合うのがいっそう難しくなる。
とくに親しい間柄であんまり損得や善悪を言い出すと、折り合うどころか関係が続けられなくなる。
折り合いたいなら、多少の負債や間違いは、お互い見て見ぬふりする寛容さがある程度は必要かもしれない。
人間は、ことばにしてやっと、伝わるかどうかというところにたどり着く。ちょっとした言い訳や泣き言を、安心して言ったり聞き流したりし合えるほど幸せなことはない。
そうした信頼関係は、一朝一夕では築けない。
相手を正すのは裁判所に任せて、折り合える人間関係を築いていきたい。
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