思い込みも記憶も案外かんたんに更新される

思い込みの中で生きている

考えてもいなかったことだけど、ヒトは思い込みの中で暮らしているという。言われてみればそうである。

わたしの娘時代は、前の日と同じ服装で出かけると、外泊したと疑われるので、毎日着替えるのがあたりまえになっていた。自宅通勤を求められることも多く、パンストにヒールが定番。四大卒は数年で寿退社が暗黙の了解だった。

今あたりまえだと思っていることも、そのうち全く通用しなくなることがいっぱいありそうだ。

たくさんの人が何となくこうするのが当然という共通の思い込みがあるからこそ、うまいぐあいに社会がまわっている。だから思い込みがすべて悪いとはいえない。

学校の教育なんてのは、共通の思い込みで洗脳する場所と言えなくもない。

記憶の中で生きているともいう

ヒトは記憶の中で生きているというのもよく聞く話である。

ヒトの記憶はいくらでも後から書き換えられるらしい。そういう話を聞くと、わたしの記憶もどこまで正しいのかまったく自信がない。見たドラマのストーリーも、読んだ本の中身も、一度くらいではたいてい覚えていない。「何回も楽しめていいじゃないか」と言われるほどである。

あんまり昔のことは、自分の体験だったのか、誰かから聞いた話だったのか、わからなくなることもある。そんなとき、誰かに「あなた、あのときこんなひどいこと言ったのよ」などと言われたら、まったく覚えがなくても、それは申し訳なかったと言うだろう。

人と会わない生活をしているせいか、名前と顔が一致しないことも少なくない。見覚えのある人に出会っても、それがどこの誰で、どういう知り合いだったかが思い出せない。挨拶をしていいものかと悩んだあげく、堂々と会釈すればいいものを、気づかないふりをしてコソコソ通り過ぎてしまうときほど情けないことはない。

アルツハイマーだった父の記憶は

父は晩年、アルツハイマー型認知症だった。自宅にいたとき、「帰ろう」と言って何度も家を抜け出した。ときには「学校に行かないと」と学生になることもあったらしい。父には時空がないかのようだった。

最後まで残っている記憶は何だろう。父はどこに帰ろうとしたのか。

話せなくなった父と最後に会ったとき、父は嬉しそうに見えて、わたしも嬉しかった。でもそれは、わたしの都合のいい思い込みかもしれない。

洗脳されて思い込まされることも、記憶が思い出せなくなることも、その中で生きるヒトにとっては、とんでもなくおそろしいことのように思う。

最後に会った父は、もう何かを思い込むことも、忘れてはいけないことも、何もないところにいたのかもしれない。

考えてみれば思い込みや記憶なんてものは、いくらでも書き換えられるいい加減なものである。

ときには手離してみるぐらいでいいのかもしれない。

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