落ち目と聞くと
この頃、何だか懐かしいことばをよく耳にするようになった。「落ち目」である。
「落ち目」というと、かつてもてはやされていた有名人の人気に陰りが見えたとき、軽蔑や同情を込めてしばしば使われていたことを思い出す。今でいう「劣化」や「オワコン」的な感じだろうか。
今はかつての勢いを失い、下り坂にある日本を指すことが多いみたいだ。
株価のチャートのように、あらゆるものごとは波のように上りと下りを繰り返すものだとすれば、わたしも年齢的には完全に下り坂の落ち目に違いない。
落ち目だからできること
幸か不幸か日本がイケイケバブルだった頃、わたしは年齢的に上り坂の成長期だったせいか、人生はいつまでも上り調子なんだとずいぶん長いこと錯覚してしまった。そのおかげで生活を見直し、調整するのにいまだに苦労している。
そういえば、人気者に限って落ち目に気づかず、周囲に誰もいなくなってはじめて気づくなんて話をよく耳にしたものだったが、まったくそのとおりで、今となっては笑えない。
誰にでもピークを過ぎれば落ち目が来る。最近になって思い知る。
落ち目を自覚することは大事である。とりあえず改善策を真剣に考えるようになるからだ。
オイルショックで資源のない日本が落ち目になったとき、必死で取り組んだのが省エネだった。その技術の恩恵が円高などのラッキーが重なり、思いのほか長く続いたおかげで日本は勘違いをしてしまい、すっかり努力を怠るようになった。そのツケが今きているそうだ。
生き物というのは、危険が迫らねばなかなか本気にならない。まあそのうち何とかなるだろう、とぎりぎりまでピンチに気づかず、何もしないのはわたしだけではないようだ。
「ピンチはチャンス」とはよくいったものである。
そろそろ苦し紛れにでも何かしなければならないと思っている。それが節電なのか片づけなのかわからないけれど、できることはたかが知れてる。それでも「焼け石に水」などと言ってられない。
できることは何でもやってみようと思えるようになったのは、「落ち目」を自覚するようになったからかもしれない。
波動の波動
株価のチャートを見ると、小さな波動を繰り返しながら、長期的には上り調子になるものもあれば、どんどん落ち目になるものがある。ものごとは変化し続けており、いい時もあれば悪い時もあって、その繰り返しであるのがわかる。
落ち目がない上り調子だけで行こうとするのは非現実的で疲れるだけのような気がする。休んだり学んだり、不運に遭遇し停滞しながら、波のように変化すると知っていたら、絶望感に押しつぶされずにすむかもしれない。
落ち目を自覚すると、自信が持てなくなる。報酬や技術の高さ、若さや体力、ことごとく劣っていることに目を奪われがちだ。逆に劣っているものごとをいっさい無視して、いやいやまんざらでもない、素晴らしい、と躍起になって自画自賛する傾向も見苦しかったりする。
所属する国や地域、あるいは自身のいいところを誇りに思うことはまったく悪いことではない。しかし、ほかの優れたものごとに学ぶ姿勢も大事である。要はバランスだ。
とはいえ人間だもの、いろんな感情が渦巻いて、ときに偏るのも無理がない。そうそういい子ではいられないものである。
でも本当は、落ち目であるピンチを自覚する今こそ、冷静かつ謙虚に賢くありたいものだと思う。
スポンサーリンク