他者が見ている自分のイメージがショックな件

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周囲が自分のことを「押しが強くてあつかましい人」のように言うのは腑に落ちない、と訴える母の話を笑いながら家族に話したら、わたしも負けないぐらい押しが強いと家族に言われた。

自分の姿は自分で見ることができない。

自分というのは、自分にしかわからない部分と他者にしかわからない部分があって、両者にはかなりのギャップがあるようです。

内弁慶は身内に押しが強くなる

母は一人っ子の一人娘で、同居するしっかりものの祖母と夫(養子でないマスオさん。わたしの父)の間で気を使いながら暮らしてきました。

祖母も夫もなかなかの個性的なキャラクターでしたので、母のがんばりがなければ、家庭はうまくいかなかったでしょう。わたしも母の気苦労は、そばで見てきたのでよく知っています。

そんな母が「気を遣うことはあっても、あつかましいなどと言われる筋合いはない」と言いたくなるのも無理のない話かもしれません。

でも、小さい頃に父親を亡くし、母子家庭を支えるために事業主として働いていた祖母といっしょに商店を営んできた母には、会社員の専業主婦にはない商売人気質でしっかりした一面があるのも確か。

周囲の人が「押しが強い」と言うのもわからないではありません。

人がどんなふうに自分をイメージするかについては、事実なんか関係ないから残酷です。

わたしも家族から「押しが強い」と笑われたとき、母とまったく同じように心外で腹立たしく思いました。

わたしと母は外見はそっくりでも性格はまったく違うと思っていたけれど、案外中身も似ているところがあるのかもしれません。

それは人見知りで友だちが少ないところ。

一見朗らかに誰とでも話をするのだけれど、じつはなかなか人と親しくなれない。

そうすると、話すのは身近な人だけになるので、自ずと内弁慶になりがち。

外ではまったく言いたいことが言えないうっぷんを知らない間に晴らしているのかもしれない。

うちの場合、家族の中ではわたしが一番口数が多い。

強引なつもりはなくても、このあたりに押しの強さを感じさせてしまう原因がありそうです。

「人見知り」は「わがまま」を隠してくれる隠れ蓑

わたしは自分のことをよく「人見知り」と説明します。

人とすぐ親しくなれないし、様子をうかがったり、距離感が気になったりするからです。

でも、友だちがほしくないわけではありませんし、人づきあいを嫌ってるつもりもない。

とはいえ、やっぱり思いどおりにならない人づきあいはめんどくさいと思うことも多い。

きれいに言えばマイペースなんですが、結局は「わがまま」でいたいんですよね。

「人見知り」は、こうした「わがまま」な自分を隠すのにとても都合がいい。

「わがまま」でいたいけど「わがまま」と思われたくない。

人と関わると「わがまま」ばかり言ってられなくなる。

だからつい「人」より「人見知り」を選んでしまう。

家族に「押しが強い」と笑われることは、わたしが自分勝手にのびのび暮らせてる証拠で、ある意味ありがたいことなのかもしれません。

傾聴できる人は少ない

わたしのような自称「人見知り」はゆっくり話を聴いてくれる人がいたりすると話したがります。

でも人の話をゆっくり聴いてくれる人はそう滅多にいません。

話したい人のほうが多いので、話がうまかったり、目立ったりしないと、なかなか話を聴いてもらえない。

たまに聴き上手な人がいると、その人の奪い合いになることもある。

そういうのをはたから見ていると、人と知り合うには、話がうまくできないと難しいなぁ、とますます引っ込み思案になる。

それ以上に難しいのが人の話に耳を傾けること。

カウンセラーのような専門家は、「傾聴」といってわざわざ訓練するらしい。

それほど人の話をきちんと聴くのは難しいことなのだ。

子どもの話やオットの話、高齢の両親の話、大切な身近な人の話でさえ、ゆっくり耳を傾けるのは困難です。

「そんなことよりわたしの話をちゃんと聴いて。」

と人の話をさえぎってまで自分の話を聴いてもらいたがる人でこの世はあふれている。

せめて大切な人の話、黙って耳を傾けられる人になりたい。

そうでないと、きっとわたしの「押しの強い」イメージは変わらない。

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