母のところに、高齢者施設で悠々自適に暮らしているママ友時代の友人から度々電話があるという。1時間もの間、一方的に話を聞く羽目になるそうだ。その話を同居の兄夫婦に話すと、「おかあさんも同じ」と言われてしまったと笑う。
母は、話を聞いてほしいという気持ちもわかるし、ひとりが気楽という気持ちも両方よくわかるらしい。
話を聞く暇がない
母のママ友時代の友人によると、子どもたちはみな多忙。ゆっくり話を聞いてもらえないという。
確かに、不要不急でない世間話をどんなときもゆっくり聞ける親孝行者は少ないかもしれない。また高齢になると、かつての友人たちはあちこち具合が悪くなる。母の友人は、まともに話のできる相手が母だけになってしまったようなのだ。
話を聞いてほしいと思うのは高齢者に限らない。子どもたちはもちろん、忙しく働いている現役世代のおとなだって同じはず。
つまらないちょっとした日々のできごとを話す憂さ晴らしを侮ってはいけない。
ところがつい、他人の無駄話につき合う暇などない、と思ってしまう。わたし自身、母からの長電話は料金を言い訳に遠慮してもらっている。
今のご時世、カウンセラーや占い師に料金を支払って、心置きなく話を聞いてもらう者もいると聞いた。お金で解決したほうが気を使わないというわけだ。
お金儲け以外に時間を潰すことは愚かなこと、と刷り込まれ過ぎではないか。
無駄話を聞くのも助け合い
人の話に耳を傾けることは、立派な人格者にならなくてもできる。
そういうことが自然にできる人には次のような特徴がある。
- できる範囲でしかしない。
- お互い様という意識がある。
市場社会では、どういうわけか批判や中傷を異常に恐れるようになる。お金以外の助け合いがないからかもしれない。ここでは優等生を目指すしか道がない。こうして知らぬ間に「やりがい搾取」されやすい人に育ってしまうようだ。
必要な拒否や拒絶もできなくなって「自己主張=わがまま」と思い込む。
自分の都合を優先し、できないことはできないと伝えることは重要なスキルである。そのことで人格をどうこう言われる筋合いはない。理不尽な誹謗中傷には話し合いで解決するしたたかさも必要だ。話を聞くということは、多少なりとも人とかかわるということで、やっかいごとに巻き込まれないとも限らないことだからだ。
といってめんどうを避けて、人の話を聞かずにやり過ごしてばかりいると、気づいたときには誰にも話を聞いてもらえない人になっている。
いい加減に話を聞いて、いい加減に話を聞いてもらう。ときにもめるのもお互い様と割り切る。こうしたバランス感覚を持つことが大事なのだ。
お金で見える化できない人づきあいをないことにしてはいけない。
深入りしないからこそ助け合える関係がある。人づきあいの大半は、むしろこうした水くさいとも泥くさいとも言えないあいまいな関係で成り立っている。
ちょっとした世間話や思い出話、繰り返される武勇伝、機嫌よく聞けるときは聞き、またときには聞いてもらう。これも互いに健康的に暮らしていくための助け合いの一つなのだ。
無駄話を聞くことも話すことも馬鹿にしてはいけない。
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