『ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー』を読んでいる。
頭が悪いってことと無知ってことは違うから。知らないことは、知るときが来れば、その人は無知ではなくなる
と言った著者のことばが印象に残っている。
ふと高齢者や貧困者は情報資源を獲得するのが困難なことから情報弱者などと言われていることを思い出した。
しかし、情報弱者であることと無知であることも違うと思ったのだ。
無知とはどういうことか。
知りたくないことがけっこう多い
多様性は、うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、無知を減らすからいいことなんだと母ちゃんは思う
多様性はいいことのようにいう。貧富の差もまた多様性のひとつに違いない。
貧富の差があることがいいかわるいかはともかく、世の中には自分とはまったく違う生活をしているものがいっしょに生きていることを受け入れることが多様性ということだと思う。
平等とか公平性とか言い出すと、多様性を考えるのはほんとめんどくさそうだ。
知らないことにしたり、見ないようにして、気が合う人とだけかたまっていたほうがずっと楽である。
無知とは、ただ知らないというより、知りたくないとか、あえて知らんふりするみたいなことも含まれているのかもしれない。
そういえば『寝ながら学べる構造主義』にこんなことが書かれていた。
無知というのはたんなる知識の欠如ではありません。「知らずにいたい」というひたむきな努力の成果です。無知は怠惰の結果ではなく、勤勉の結果なのです。
あることを知らないというのは、ほとんどの場合、それを知りたくないからです。知らずに済ませるための努力を惜しまないからです。
多様性を受け入れるということは、自分の知らない世界を無視しないということ。
共感できなくても、対立したとしても、相手を知り、折り合わねばならない。
だから多様性は無知を減らすことにつながるというのだろう。
多様な自分
自分の中にも多様性がある。有利な自分と不利な自分。見せたい自分と隠したい自分。母親である自分と妻である自分、子どもとしての自分に姉妹としての自分などなど。
勝ち馬に乗れてるようなときは、何となく自信が持てて意気揚々としていられるが、誰かを虐げていたり、あるいは誰かに虐げられている自分なんかは見ないようにして身を守る。
誹謗中傷や暴力は、自身の身を守る行為のあらわれではないだろうか。
やわらかい子どもの脳は、保護者の言動で物理的に脳が変形することがわかっている。これは外部からのストレスに耐えられるように、情報量を減らす脳の防衛反応なんだそうだ。
もしかしたら無知もまた、脳の防衛反応なのかもしれない。
それでもなお、ヒトは人間社会と大自然の持続可能性のために、多様性を求めずにはいられないのだからおもしろい。
スポンサーリンク