言葉遣いと印象と

kotobazukaitoinsyo

StockSnapによるPixabayからの画像

会見しても少しも伝わらないとか言われてさんざん叩かれる人がいる一方で、好感度を上げる人もいる。いつも不思議に思う。

印象はどこからくるのか。

言葉遣いがいいとは?

言葉遣いが丁寧できれいな言葉を使っていれば間違いないかというと、そうでもない。

敬語を使わないフワちゃん、わたしも大好きだ。

いくら丁寧な言葉を使っていても、誠意がないと感じれば、慇懃無礼、かえって上から目線的な印象を受ける。とくに立場上強い人やルール上間違っていない側の人は、お願いする側の弱者に対しては、どんなに注意しても尊大な印象を与えがちである。

もちろんだからといって、言葉遣いが雑になってかまわないわけではない。

ただ言葉遣いというのは、服装と同様、配慮できれば言うことないが、かたちを整えればそれですむというものでもないようだ。

印象を左右するもの

それでは印象を左右しているのは何だろう? いつも思う。

天才的詐欺師は嘘をつかないと聞いたことがある。騙された者も騙されたと気づかないという。嘘をつかないことは重要なポイントかもしれない。

だからといって、たとえば何かをお願いされたとき、それはできないの一点張りでは芸がない。できない理由を並べ立てたところで誠意は通じない。嘘をつかずに本当のことを言えばすむというものでもなさそうだ。

こういうことならできるから、もう少し待ってもらえないかとか、ほかにできることはないか検討してみるからとりあえずこうしようといった代替案を提案するとか、あれこれいっしょに考える姿勢を示せるかどうかが大事な気がする。

そういうのをひっくるめてきっと誠意と言うのだ。「モモ」のように黙って相手の話を聞くだけで誠意を示せることもあるかもしれないが、多くの場合、言葉で状況や姿勢を説明するところまで含んで誠意というのではないか。

我慢強い最強の言葉遣い

状態や姿勢についての説明は、うまくなくても、しどろもどろでもいいからしたほうが得ではないか。混迷ぶりなどは、いっそそのまま伝えたほうがかえっていいかもしれない。

失敗しないように、批判されないように、慎重に進めようとして何も言わずにいるのは、陥りやすい一番駄目な方法の気がする。

失敗を訂正し、謝罪を恐れない言葉遣いはコワいもの知らずである。

訂正や謝罪を繰り返すと、一時的に信用を失うなんてこともありそうだ。しかし、人生失敗しないなんてことはあり得ない。失敗を認めて謝罪することに抵抗がないほうが長い目で見れば信用されるようになるに違いない。少なくともわたしはそういう人を信用したい。

言葉で説明するのは、めんどくさいし難しい。自分自身、よくわからないときも少なくない。そういうときも含めて、わかってもらえようがもらえまいが、大事な人にはその都度根気よく説明することに尽力する。その姿勢が届くのではないか。

丁寧であろうとなかろうとそんなことは関係ない。おっくうがらず、いちいち説明する忍耐強い言葉遣いができるかどうかにかかっている。

言葉の力を鍛える読書・作文教室、ひっそり細々やってます……。

200927minori

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