個人情報、やりとりの塩梅

kojinjyoho

個人情報はむやみに公開してはいけない風潮である。クラスメートや町内会の住所録を作成しては配布していた頃を知るわたしとしては、時代が変わったことを実感している。

一方で、そんなプライベートな写真をネットで公開するんだとびっくりしたりするのだが、ネットの中は現実味がなくて勝手が違うと言われればそんな気もする。

究極の個人情報である本音や本性をどんな相手にどこまで打ち明けるか。いつの時代も悩ましいことだったに違いない。

人格は多様なものかもよ

確か『ぼくイエ』の中に登場する校長先生がパーソナリティは一つじゃないみたいなことを話していた。パーソナリティというのが日本語でどういうものを意味しているのかわからないけれど、人にはいろんな面があり、いくつもの個性があるということを言っているのではないかと理解している。

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人格というと、一つにまとまっているのがあたりまえのように思っているが、あまり一つにまとめてしまおうとするのも不自然なことかもしれない。

たとえばわたしは妻でもあり母でもあり娘でもある。無口で人見知りすることもあれば、余計な発言をして失敗することもある。行動的になるときもあれば、臆病になって動けなくなることもある。相手によって、場所によって、そのときの調子によって、わたしという人格は、ずいぶん違って見えてることだろう。

自分でさえそんなだから、ほかの人のことは計り知れない。

個人情報のやりとりは

人づきあいは個人情報のやりとりで関係を築くことである。

ロバートキャンベル氏は、

楽しくほっこりするだけでなく、時には簡単に答えを出さず、対立したまま別れることができる公共空間がほしい。

と述べているが、考えてみれば対立するようなことがあっても、必ずしもいがみ合ったり誹謗中傷することはないのである。

「ここが違う。」「わからない。」「それは嫌。」「そうなると困る。」などと言い合っては別れ、また折を見て対話する関係が築けたらどんなに素晴らしいだろうか。これこそ究極の個人情報のやりとりである。

でも多くの場合、対立する相手とは「話にならない」とか「話ができる相手ではない」と言い、席につくことさえあきらめたり拒否したりしがちである。

というのも、折り合うつもりはないからだ。なぜなら、悪いのは相手で、むこうが間違っているんだから。しかし、向こうは向こうでこっちが悪者でこっちが間違っていると言うから腹立たしい。

こうなると、相手のために少しでも折れてなるものか、となるのは当然の成り行きである。そのとき、折り合いではなく打ち負かすのが目的になる。

しかし、人との関係は勝負ではない。とはいえ個性豊かで多様な個人情報のやりとりに対立はつきものになる。

しかし、勝つことは目的ではない。勝負になっても、納得し合える引き分けに持って行くことを目指すのが関係を築くということだ。とすれば、見たくもない顔を突き合わせ、とりあえずは席に着くことを繰り返すことも無駄ではない。

個人情報がただの勝負や損得の道具になってしまう危なっかしさを感じている。そのやりとりは慎重かつ丁寧に。いつの時代も変わらない。

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