美術や音楽、運動が苦手でも
作文というと、なんだか小学校の課題みたいだけれど、これは立派な創作活動で自己表現のひとつだと思っている。
絵は描けるものなら描きたいけれど残念ながら描けない。音楽はじつは大学にまで入って勉強したものの、思うように表現できるような技術を身につけることはできないと思い知った経緯がある。自己表現手段としては、劣等感を抱いているジャンルである。運動は好きではなかったので、自己表現手段として考えたことがなかった。
そんな中、お習字と作文だけは小さい頃、たまにほめられることがあった。だからだろうか。この年になっても書くことが楽しみのひとつになっている。
そういえば、字はどういうふうに書けばかっこよく見えるか、どんなふうに丸っこい字体にすればかわいいか、そんなことを考えながら書くのが好きだった。作文は好きというより苦にならなかった。絵はまるっきり描けないくせに、きれいな字を真似るのはなぜか得意なほうで、読むのは好きだった。
何でもいい。こんなふうに何かしら自己表現できるものを持っておくといいなと思う。
とくに作文は大した道具も体力もいらないわりに役に立つ。また年をとっても環境が多少変わっても続けやすいのがいい。
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作文はコミュ力を上げる
これからはきっとAIがじょうずに作文してくれる時代になりそうなので、作文なんてできなくてもいいと思うかもしれない。わたしの場合の運動のように、作文は好きでもないし得意でもないというなら、無理に書く必要はないかもしれない。
とはいえ運動嫌いなわたしも、年をとってから苦労して運動習慣を身に付けた。健康維持の必要に迫られたからだ。そのおかげでからだを動かす大切さも快適さも少しわかるようになった。
作文を身に付けることもまた、長い人生を生き抜くのにかなり便利で役立つものである。
作文、つまりことばを紡ぐ作業は、人間関係を営む上で非常に大事なコミュニケーション能力を磨くことにもなる。その場の対応力が問われる会話は難しくても、メールや手紙、原稿など、作文力を発揮できる機会は少なくない。失敗を挽回するチャンスを作れる可能性もないではない。
さらに作文は自己表現手段としても有効だ。
人は何かと表現したがるものである。とくになぜか言葉を使いたがる。SNSや会見を見ているとよくわかる。うっかり失言してしまうのは人間だもの仕方ない。
でも日ごろから思考を整理する作文を身に付けていたら、失言を取り返すことができるかもしれない。言いたいことをもっと気持ちよく伝える方法を思いつくかもしれない。
作文は精神を安定させる
日記に思いを書きつけるだけで冷静になることがある。経験した人もいると思う。医療現場の治療方法としても使われている。書くことは精神の浮き沈みを抑え、穏やかにする作用があるようだ。
長い人生、いろいろある。いいことばかりではないし、いい人ばかりではいられない。そんなとき、作文を身に付けていると、何かと救いになる。
ただしプライベートな作文はくれぐれも漏れないように管理する配慮を忘れないようにしたい。
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