嫌な人も、働かない働きアリのように、きっといないといけない存在

iyanahito

若い頃からそうだったけれど、年々年をとるにつれて、ますますわざわざ気が合わない人といっしょに過ごすのは避けたいと思ってきた。すると、結局誰とも接触しないのが一番ラク、ということになってしまった。それはそれで都合が悪いということに、最近ようやく気づいた。

人間ひとりでは生きられない。ひとりが気楽で楽しいと思える時期は、あっても人生のごく限られた期間に過ぎない。

とはいえ、人づきあいがおっくうで、得意でないわたしが今さらどうしたものかと悩んでいた時「多様性を説く一方で、白人至上主義者の存在を認めないというのはどうか」というような記事を読んでハッとした。

人づきあいがおっくうになる理由

自分が直接関係していないもめごとや事件を見聞きするだけで、強いストレスを感じる性質だということに気づいたのはつい最近のこと。感覚過敏でいろいろ苦労している発達障害の子どもに指摘されたのだ。

とくに人嫌いというつもりもないのに、何となくめんどうくさくなって避けていたのは、ストレスを回避するため、無意識にやっていた安全対策だったのかもしれない。とすれば、少々やり過ぎてしまったようだ。

家族やご近所、職場など、避けたくても避けられないむずかしい対人関係もないではないけれど、ほとんどの場合、人づきあいは自分で調整できる。思いどおりにいかなくても、そこは試行錯誤しつつ距離感をはかりながら、おつきあいしていくということを怠って、逃げてばかりいた。

人は集まればあたりまえのようにトラブルが生じる。そんな中でうまくやらないといけない、と思うと憂鬱になるのだ。何も始まっていないうちからこんなふうに疲れてしまうのだからあきれる。

いい年をして修行が足りない。

嫌いな理由

人づきあいで困るのが苦手な人との関係。

悪口を言われたり、直接嫌がらせをされたというのなら、嫌いになるのもわかるけど、嫌いな理由がはっきりしないことも多い。

「何となく感じが悪い」といった直感的なものだったりする。

意見や考えが対立すると、憎んだり嫌ったりするきっかけになることがあるけれど、全然自分と違うことがかえって新鮮だったり、おもしろいと好感を持つこともある。

結局、理由があって嫌いになってるわけじゃないのかもしれない。

ストーカーの話を聞いてると、好きなのか嫌いなのかわけがわからないし。

巷の批判や称賛で、簡単に好きになったり嫌いになったりすることもよくある。

好き嫌いというのは、つくづくいい加減なものだ。

そんないい加減な嫌いが高じ「間違ってるから排除する」なんてことになるのが一番危ない。それは決して身を守ることにはならない気がする。

とんでもない意見の人や困った行動をする人はかならずいて、そういう人たちもまた、同じところで同じように生きているのが現状。働きアリの中に、なぜかかならず働かないアリがいる。それがどうしてなのかわからないのと同じで、地球上のこの生態系の中、消していい存在なんてないのだと思う。

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