話を聞かなくなった理由

kikanai riyu

人の話をよく聞くというのは案外難しいものである。

身近な人の話なんかは結構な確率でおろそかに聞き流している。その一方、自分の話を相手が聞いてないと察すれば、途端に不愉快になるのだから勝手なものだ。

テレビやネットの話は無意識に気に入ったものを選んでいる。不快な話には自然と耳を貸さない。

誰しも趣味嗜好がある。多少話が偏るのは仕方ない。それにしてもわたし、話をまともに聞かなくなっているのではないか? ふと不安になった。

話を聞かないのは対立を避けるため

無意識に耳障りのいい都合のいい話を選んでいる。気に入った話や好きな話を聞くのは楽しい。

わざわざ嫌な話を聞いて憂鬱になるのもどうかと思うが、だからといって共感できる話ばかりを自ら集め、それ以外の話に耳を傾けられなくなっていないか気になっている。

思考や判断は、多種多様なものに触発されて育まれるからだ。

若い頃に比べれば、ニュースや新聞記事、政治経済の動向にも関心を持つようになった。逆に若い頃熱心だったものごとの大半はそれほど興味を持てなくなった。年齢や環境の変化は、興味や関心も大きく変えてしまうもののようだ。

移り変わる個人的な興味や関心を中心にした思考や判断には限界があると思うようになった。

世の中のことについて、NHKや新聞報道はざっくりまとまっているが、個人的にはしっくりこないことも少なくない。実情と合っていなくてピンとこないのだ。

専門家や有名人、知人など、個人ひとりひとりの話を聞いていると、みなそれぞれ違った意見を持っているのがわかる。いろんな話があって、何がほんとなのかわからない。こういう混沌とした状態が一番実情に近いのかもしれない。

そんな中、自分に都合のいい話を気に入って支持しているもののようだ。

みな立場も環境もバラバラなんだから、気に入る話が違うのはあたりまえで、共感できない話があるのも当然だ。口汚くののしり合うのは見苦しいが、自分勝手に思うところを互いに話すのは悪いことではない。

そうして折り合いをつけていくのが政治なのだ。

以前は争いごとを見るのが嫌で、避けることばかり考えていた。それが話を聞かなくなったことにつながっているかもしれない。話を聞かないことが争いを避けて身を守る術だったのだ。

しかし、生活は話の合う人だけが集まってするものではない。折り合うことこそ生活だ。終わりが見えない議論を恐れていては始まらない。

共感できないわずらわしい話にも互いに耳を傾け、議論することを恐れず、折り合いどころを探ることをめんどくさがっている限り、いつまでたっても道は開けない。

だから困っている。

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