怒りとは、出し入れ可能な「道具」
とは、アドラーの言葉である。
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内から自然に湧き出てくるのが感情であるとイメージしていると、かなり違った印象だ。
感情は簡単にあおり、あおられる
企業のブランド戦略を手掛けるハワード・ブレインデル氏は
消費者は商品やサービスに感情を揺さぶる物語があるか、体験を共有し、共感できるか、という付加価値を求めている。
と述べている。
企業は、お金儲けのために感情をあおるようなことがあたりまえのように行われているのだ。
ギリシャの経済学者ヤニス・バルファキスは、ショッピングモールについて
その構造、内装、音楽など、すべての人が心を麻痺させて、最適なスピードで店を回らせ、自発性と創造性を腐らせ、われわれの中に欲望を芽生えさせ、必要のないものや買うつもりのなかったものを買わせてしまう。そう考えると、どうしても嫌悪を感じざるを得ない。
という。
感情というのは、どうもほかの誰かに簡単にあおり、あおられ、誘導されてしまうもののようだ。
感情がアドラーのいうように、出し入れ可能な道具であるなら、自身できちんとうまくコントロールしたいもの。そのためには、感情は内から自然に湧いてくるものといったイメージは持たないほうがいいかもしれない。
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感情と理論の関係
感情的な人と理論的な人というと、何となく対立しているイメージがあるけれど、感情は理論に後付けされて発生するものというから、どっちもどっちである。
たとえば「怒って大声を出した」というのは、大声を出すために怒りという感情を持ち出しているという。
感情も理論も人の内部である意識から生じているもので、理論的だからといって客観的でも何でもないのである。
人の内部から生じる意識と対立するものとしては、外部からの刺激である感覚所与なのだけれど、これも受けるのは結局人なのだから、まったく客観的に事実をありのままとらえるということは、人にはできないということらしい。
だから、どっちが正しいといった論争は、ほんとは誰にも判断できないことなのだ。
養老孟子氏は、
両者の存在を認めたときに生じる両者間の最良の対応関係
が大事で、
科学とは、我々の内部での感覚所与と意識との乖離を調整する行為
なのだという。
もともと両方(意識と感覚)あるんだから、万事は釣り合いの問題に過ぎない。
ところで、ラグビーを見て、勇気づけられ、心動かされた方も多いと思う。こうした心の揺さぶられ方は大歓迎だけれど、うっかり誘導されたり洗脳されたりして引き出されてしまう感情もあるということを知っておいたほうがいいかもしれない。
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