家事は生きてる限り誰にでも発生する仕事

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羽鳥さんのモーニングショーの「そもそも総研」で「タスカジ」が紹介されていた。

主婦の家事スキルを仕事にし、家事の時間を仕事や育児・介護に充てたいという需要にこたえているという。

炊事・洗濯・掃除や片づけは、生きてる限りなくならない。それにAIがこなすにはむずかしい仕事だ。

家族がやるのがあたりまえで、どうにかこなしてきた家事だけど、いよいよ考えないといけない時期にきているみたい。

老々介護中の母に家事する余裕はない

認知症の父を自宅で介護している母も高齢である。もちろん介護サービスや同居家族の助けを借りながらがんばってくれているのだけれど、身支度やトイレが自分でできない父の介護をするのは簡単じゃない。

時間も体力もいる。

さらに母は個人商店を営んでいる。

とても家事するひまなんてないように思う。

介護サービスにはお金がかかる。たとえお金をかけて自分がラクしても、父は施設で寝かされるしかなくなり、多少動けるからだもまたたくまに弱って寝たきりになるのが目に見えていると母は言う。

きっとしんどくて、投げ出したくなることも度々あるだろうけれど、それでもやっぱり自分がやるしかない、というところで落ち着くしかないようなのだ。

介護だけでも経済的負担が大きいのに、家事代行をお願いする余裕なんてない、というのがふつうではないかしら。

家事は生きている限りどんな人にも発生する仕事。そして、それが自分ではできなくなる事態もまた、誰にでも起こり得ることなんですよね。

お金で解決する方法は、あくまでも方法の一つ。そうしたくてもできない可能性があるなら、それは家事をまわす方法の一つに数えることはできません。

お金を稼ぐのか、自分で家事をするのか、家事ができないとき誰に助けを求めるのか、を考えることは、どんな暮らしをしていくかを考えることで、選択肢は一つじゃないことを覚えておきたい。

家事はいくらがんばっても感謝されない

「タスカジ」で働くスーパー主婦たちが口をそろえて言うのは、「うちでは家事をいくらがんばってもあたりまえで感謝されないのに、よそで同じことをすると、喜ばれてお金までもらえる」というようなこと。

わたしも同じように思ってました。

お金が稼げない仕事って、社会的には仕事してないも同然なんですよね。

社会的に認められないって哀しいし寂しい。

だけどお金が稼げるかどうかが唯一の評価基準というのも怖い話。

最近、あちこちで資本社会の限界やら欠点を知るようになって、わたしもいつの間にかすべてのことをお金に換算して考えるようになってたことに気づきました。疑問すら感じてなかった。

資本社会やお金に不安を感じたとき、この本がおすすめ♪

確かに、お金に交換できる市場社会は便利だし、大事だと思う。

でも人間社会は市場社会だけではやっていけないんですよね。

稼げない人がいるし、教育や介護など、どうしたって稼げない分野があって、助け合ってまわしていくしかないからです。

実際、市場社会があまりに強大になり過ぎて、疲弊している人が少なくないように思います。

公平とか平等とか損得すべて、お金に換算して評価すると、一見わかりやすい。だけど幸福度がお金に換算できないように、人間はAIのように計算だけでできてないんですよね。

そんなこんなで、オットが働いてくれること、子どもが社会福祉の恩恵を受けてること、家族が家事を手伝ってくれること、すべてに感謝するようになりました。

もちろん、もっとお金がほしいとか、お金がかからないように暮らしたいと思わない日はないし、ときどき将来が心配になったりもしますが、そんなときは「人間社会はお金だけではまわらない!」ことを思い出して、やれることをやろう、と気を取り直せるようになりました。

家事は自分でできることは自分でやれるようにくふうして、できないところは助け合う。誰かが当然のように任されてやるものでもないし、やってもらうものでもないというのがわたしの考えです。

なぜなら生きてる限り、家事は誰にでも発生する仕事なんですから。

どんなふうに回していくかは自分次第。



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