「こういう考えです。」と表明するのは問題ない。ところが、正しいとか間違ってるとか、いいとか悪いとか、つい評価してしまうから気をつけなくちゃと思う。
もちろん評価も含めて表現は自由なんだけど。評価は言い合ってももめるだけだし。
それに人が考えたり発言したりするときに使う言葉自体、思っているほど万能じゃないんですよね。
言葉の能力と限界、知っておくと禍(わざわい)が避けられるかも。
言葉には時間がない
「言葉は時間を含んでいる」と思っていました。
しかし、よく考えれば再現できるし、
再生も復元もできる。
言葉に時間はありませんね。
言葉は写真のように切り取ることができる。だから時間がないってことみたい。
でも、人間は日々変化していて同じじゃありませんよね。
ちょっと前に考えてたことが今は違うなんてことも珍しくないわけです。
だから瞬間的に自分の考えを捕まえて、なるだけ誠実に言葉で表現したとしても、今の自分の考えとは微妙に違っててもおかしくない。
とはいえ「あのときの自分は今の自分とは別人です!」では通りません。
当然、表現した言葉には責任がある。そりゃそうです。でないと言葉での意思疎通ができなくなってしまいます。
理論的、合理的な説明に用いられる言葉は、とかく万能なように思いがちだけど、じつは変化をとらえきれない欠点があるんですね。
生きてる人の変化を表現しきれない言葉でもって、人は考えたり発言したりしてるんですね。
言葉は意識的
言葉は意識的なことしか表現できない。
意識的とは、自分でわざとそうしようと思ってするさま。
無意識に「痛い!」と言うような場合や、覚えがない酔っぱらいの悪態などは、意識的と言えるかどうかはわからないけど、それでも脳は意識的に動いているのかも。
人間の脳は大きくて、いろんな分野が連携していて、きれいに分割分業されていないそうだから、もしかしたら無意識に発する言葉もあるかもしれない。それでも考えたり悩んだり、書いたり発言したりする大半の言葉は、意識的なもの。
だけど人間は、無意識のほうがはるかに大きな領域と言います。
「言葉にならない」「言葉にできない」ものが何となく思い当る気もします。どんなこともすべて言葉で表現できるかと問われたら、できないって答えます。
とするなら、無意識よりはるかに小さな意識的領域にある言葉の表現は、かなり限定的なものだということがわかりますよね。
言葉を活用するには
言葉には、このように制約や限界があるんだけれど、そんな中で人は、言葉を自分の経験や知っていることと重ね合わせ、想像したりイメージすることができるんですよね。
それが読解力。
これは言葉の限界を大きく超える可能性を秘めている。
言葉は、ひとりでは生きられない人間が助け合って暮らすためにできた偉大な発明品。
傷つけたり、争うための道具にするだけで終わらせたらもったいない。
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