「いただきます」の世界

命を頂戴しながら生きている

「いただきます」というのは、動植物の命を頂戴しますという感謝の言葉だと知ったとき、謙虚ないい言葉だなあと感心したものだった。人間に限らず生き物は、ほかの生き物を犠牲にしながら生きていることをあらためて考えさせられる言葉である。

とはいえ、どこまでも自由勝手にがんがん命を頂戴していいかというとそうもいかない。「いただきます」する命には限りがある。減少すれば、やがて捕食者も生きていけなくなるからだ。

世界は食物連鎖だけで成立しているわけではない。依存関係や共生関係と複雑に絡み合っている。多様であればあるほどこの世界は豊かで盤石になると言われている。

栄養バランス同様、生き物もバランスよく多様なほうがいいというわけだ。

バランス感覚も多様

どこでどんな具合に釣り合うのがいいかというバランス感覚も一つでないからめんどくさい。

「自分のことは自分でする」といった価値観も、どこからどこまでかはひとりひとりてんでばらばらなのがふつうである。何となく一般的とか常識といっても、地域や年齢、性別や生まれ育った環境、さらには時代なんかでかなり異なるだけでなく、変化し続けている。

多様であるのはいいことだという一方、協力し合ったり助け合ったりするには、ある程度共通認識が必要だということもわかっている。多様でばらばらの価値観を許容しつつ、相互に受け入れ可能な認識の領域を持たなければ生きていけないのだ。

強いものが弱いものを支配する世界は続かない

お金持ちの権力者が有利な現実に絶望したり、対立する価値観を抹殺するしかないと思い詰めたりしがちだけれど、捕食者だけが生き残ることができないように、一方的に強いだけのものが一方的に弱いだけのものを支配する世界はいつか終わる。

あるところでは強くても、別のところでは弱い。そういった複雑で豊かな関係性が絶妙に釣り合うところを模索し続けるしかなさそうな感じがしている。

格差問題が深刻な今、『大誘拐』を読んで考えさせられた。

『大誘拐』のおばあちゃんが痛快なのは

天藤真の『大誘拐』で誘拐された大金持ちのおばあちゃんは、三人の誘拐犯を手玉に取って、100億円という巨額な身代金をまんまと手に入れ、誘拐犯に協力する。

膨大な山林を子どもたちに贈与し、それを得意先の銀行に買い取らせて現金に換え、自分の命を助けてほしいと誘導する戦略は圧巻である。

子どもたちをはじめ女中、地元金融機関、地元テレビ局、地元輸送会社の操縦士といった関係者からの信頼の厚さもあっぱれ。

本来処分して現金化するのが難しい山林をちゃっかり現金に換えたものの、その大半は国の税金に取られる。しかし、残りが身代金となると「災害または盗難」の一つになって雑損失控除の対象となり、子どもたちの手取りは減るものの、懐は痛まないという見事な計算なのだ。

どうしてこんなことをしでかしたのか? 

おばあちゃんの心にこみあげる「お国」への憎しみの記述が印象に残る。

自分から(戦争で)愛一郎を奪い、静枝を奪い、貞好を奪い、それでも足りずに、自分の命にもひとしい山を奪おうとしている「お国」への憎しみ……この期になって初めて湧いた感情であった。

この美しい山々も、命をかけて愛し、育てて来た樹々も、いつかは時の権力者の餌食になってその貪欲な胃袋に納まってしまうのだ。

何をいおうと所詮はごまめの歯ぎしりだ。

ただ大金持ちのおばあちゃんが暇つぶしに誘拐に加担しただけのお話であれば、たぶんそれほど共感する読者はいなかったと思う。おばあちゃんもまた、無力なひとりの人間であり、やがて死ぬことは避けられず、また権力の前に太刀打ちできない存在であるところにこの物語の痛快さがある。

あの人はお金持ちだから、きれいだから、頭がいいから、とひがみたくなるどんな人にもかなわない多様な力がこの世界にはあるのだ。

だからこの「いただきます」の世界に希望を持ち、知恵を尽くしたい。

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