「ごめんなさい」はあいさつ

謝るか謝らないか

日本では、とりあえず謝っといて丸く収めるのが主流かと思っていたが、この頃は多様化しているようだ。

「自分は悪くない。だから謝らない。」という外国人配偶者の話を読んでびっくりしたことがあった。

くわしいことは忘れてしまったが、遅刻したのは自分のせいではないから謝らないという配偶者の話だったように思う。電車が遅れたのは自分の責任ではない。従って遅れたことを謝罪する必要はない。失業して仕事がなかったり、給料が安いのも社会が悪いのであって自分のせいではない。こんな調子で自分の落ち度をすべてまわりのせいにする傾向があるといったような話だった気がする。

当時は「へえー」と思って外国人と結婚するとたいへんだなあくらいに思っていたのだけど、その外国人配偶者の言い分は理にかなっている。日本でも最近は主流だった自己責任論が問題になってきている。

そういえばアメリカなんかは訴訟の国だから、交通事故で、たとえ自分に非があっても、決して謝ってはいけないと聞いたことがある。裁判で不利になることは一切言ってはいけないらしい。だから離婚訴訟で円満離婚はあり得ないと聞いた。

どっちもどっちである。

良し悪しは移り変わる

日本人がとりあえず謝るのは、一種のあいさつみたいなものだったからだ。内心「悪かった」などと思っていないことも珍しくない。社交辞令的な文句なのだ。とりあえず謝れば、潔いと評価されることさえある。

ところがなんだか最近潮目が変わってきた。謝罪を強いればパワハラである。遅刻や失業をした人に対しては、能力を問うよりも配慮するのが妥当とされつつある。社会の背景が変わったからだ。

とはいえ強いものが正しく良いものを強いる構図は変わらない。

良いか悪いかは時代によって変わる。「とりあえず謝っとけ」で済んだ時代はとりあえず終わったようだ。

遺憾は謝罪ではない

ここは謝罪かと思いきや、遺憾という言葉でお茶を濁されてもやもやすることがある。この遺憾というのが非常に使い勝手のよい便利な言葉で、使いたがる気持ちもわからないではない。

かんたんに言えば「残念」という意味だ。「わたしの責任ではないので謝罪はしませんが、このようなことになってしまったのは残念でなりません。」と言われてしまっては、返事のしようがないのである。

じつはわたしも「残念」はよく使う言葉である。

どっちつかずの「遺憾」は、今後ますます見直されるようになるかもしれない。

悪いことをしたときは謝ると教わったものの、謝った方がいいのは、いったいどこからのことをいうのか。なんだかこの頃わからなくなってきた。

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