言い争いも逃げずいとわず対話できたら

iiarasoi taiwa

わたしは平和主義でも人徳者でもない。悪口も言いたくなるし、嫌いな人もいる。とはいえ、昔から揉めごとを見るのは苦手だった。いい負かされるのがコワイ臆病者なのだ。

最近、著名人が「今は心をひとつにして助け合うとき」みたいないいことを発信すると、なぜか炎上するという。非難や不満を口にする人を遠回しに上から目線で責めているようにとられてしまうようだ。

わたしが住んでる地域はまだ感染者が少ない。だから感染者が出ると、どこの誰が何で感染したのか? といった問い合わせが殺到するそうだ。地方のSNSを見ていると、感染者になるのがコワくなる。隠す人が出てきてもおかしくないなって思う。

言い争いを避けて恰好つけるのも自己防衛なんだけど

「まあまあそこまで言わなくても」などと仲裁なんかできないし、説得する能力もない。内心どろどろした思いを抱いていても、わたしはその場からとっとと逃げ出すことにしている。それがみっともない自分をさらけ出さずにすむわたしなりの自己防衛術なのだ。「いい恰好しい」と言えなくもない。

だから、日ごろから意見の合わなそうな人の意見には触れないようにしている。どろどろした醜い思いが高ぶらないように自然と避けているようだ。どこかで悪口や批判がましいことをうっかり表現して失敗しないためである。その一方、共感できる意見や好きな人の情報は積極的に集めている。

あたりまえのように自然にそうしていたのだが、これはこれでバランス悪いことに気がついた。

白黒つかないめんどくさい状態に慣れたほうがいいかも

コロナ危機では、いつまでどれだけ我慢すればもとの生活に戻れるのか? 知りたいと思う。

政治家や専門家は、エビデンスに基づいた説明を求められている。だけどそのエビデンスとかいうのも一つじゃないし、どれくらい信用できるのかもわからないし、解釈の仕方もそれぞれだったりして、ほんと先行きまったくわからない。

ほんとのところ、誰もわからないんだろうな。

こんな事態になって、人間ひとりでは生きられない社会的な動物だったんだなぁ、とあらためて思い知らされている。

強いリーダーシップのもとでまとまるのがいいのか? 民主主義を徹底するのがいいのか? 個人の権利と自由をどこまで尊重すればいいのか? 救命は個人を拘束してでも優先するものなのか?

あらゆる場面で線引きが求められている。正解なんてあるんだろうか?

正誤や善悪ははっきりさせてすっきりしたい。

でも残念なことに、白黒はっきりできることのほうが少ないのが現実。

できることは、そのときどきに一番マシな答えを模索することぐらいだ。そのために対立して言い争うことも、ときには必要な手続きなのかもしれない。

ソーシャルメディアなどでは立場が違うとみるや、相手を敵視し、汚い言葉で罵倒する書き込みが当たり前になった。(朝日新聞 映画「三島由紀夫vs東大全共闘」が問うものより)

豊島監督は、立場も思想も生き方も正反対の者同士が対話することの重要さを改めて感じると述べている。

三島は対立する学生に対し、互いの接点について語り、評価もする。相手の言葉に耳を傾け、質問し合う。アクションさながらバトルのような対話を繰り広げる。やがてそこには共感やリスペクトが芽生えるという。

現代人は便利なサービスや効率のいい生産に慣れ過ぎて、本来は白黒つけられないようなめんどくさい本質的な問題にも、おんなじ調子でシンプルにさばこうとするようになった。その頃から何でも白黒つけることがいいことで、何でもそうできると信じるようになっていた気がする。それでどうしても処理できないものは見ないようになったのではないか。すべてはそうするためのサービスであり生産だったようにも思えてくる。そうしてラクするつもりが、本来めんどくさい人間であるわたしなんかは、何でもスマートに処理することに違和感を覚え、ついていけずにくたびれてしまったのだ。

と言っても、いっこうにまとまらない時間のかかる話し合いにはうんざりするし、はっきりしない先行きに不安は尽きない。

でも、白黒つかないめんどくさい状態があたりまえだったことを思い出したい。それをどうにかこうにかやり過ごすしたたかさもあった。そういう泥臭さを発揮するときなのかもしれない。

言い争いをいとわない対話もその一つ。

今は、適当に距離をとらないといけないからまたややこしい。

今、読みたい対話本!

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