「格差」と「対岸の火事」

kakusa taigankaji

広辞苑によると、格差とは

商品の標準品に対する品位の差。また、価格・資格・等級・生活水準などの差。

とある。最近では、リモート教育の地域格差のニュースが報じられていた。

格差というと、なぜかわたしは「対岸の火事」ということわざを連想する。これも広辞苑によると、

自分には全く関係のないできごとで、少しも痛みを感じないものごとのたとえ。

神戸で阪神大震災に被災したとき、何ごともなかったかのような大阪の日常が何だか恨めしかった。ほんの少し場所が違っただけで、こんなにも世界が変わってしまうのか、とショックを受けたことを覚えている。それを「格差」といっていいのかどうかわからない。大阪は、地震を「対岸の火事」としか認識していないように感じた。

それ以来、わたしの中で「格差」と「対岸の火事」がどういうわけかセットになった。

そんなわたしも、その後の各地の自然災害は「対岸の火事」のように見てしまっている。

自分の身に火の粉がふりかからない限り、当事者になるのは難しい。

その一方で、豊かな想像力を発揮し、高い危機意識を持ち、弱者や困っている人を助けようと奮闘する素晴らしい人も少なくない。

こうした格差はいったいどこからくるのか。想像力や共感力、危機意識の格差か?

ところで、差や違いがあることは、必ずしも悪いことではないことも忘れずにいたい。

多様性の観点からは、差異はむしろ歓迎すべきことだ。「対岸の火事」的視点が貴重な場合もないとはいえない。格差はなくせばいいという単純なものではないように思う。みんな同じでは気持ち悪い。

何ごとも極端になることには気をつけたい。釣り合いを考えて、いい塩梅を見つける模索が大事だ。

地方は、危機的状況にある都心部を「対岸の火事」のように見ることはできない。

医師も病院も少なく、経済基盤も弱小な地方は、わずかな火の粉で大惨事になるとわかっている。万全な準備もできていない。頼みの都心部が打撃を受けている今、見捨てられる可能性も考えられる。ただただこのまま収束していくことを雨ごいのように祈るだけである。

週に一回の買い物も油断できなくなってきた……。

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